自分の幸せに気づく心理学</br>アメリカ「無名兵士の言葉」が教える大切なこと

自分の幸せに気づく心理学
アメリカ「無名兵士の言葉」が教える大切なこと

ーーーーー【悩める人々への銘】ーーーーー

大きなことを成し遂げるために
強さを求めたのに
謙遜さを学ぶようにと弱さを授かった

偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
より良きことをするようにと病気を賜った

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようと
成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

人生を楽しむために
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを慈しむために人生を賜った

求めたものは
一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
私は もっとも豊かに祝福された
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人間の幸せを考えるときに最も重要な二つのポイントがある。
それは「比較」と「慣れ」である。アメリカの著作や論文に時々出てくる「comparison & adaptation」の危険である。この2つが障害になる。「註、 Cahit Guven • Bent E. Sørensen、Subjective Well-Being: Keeping Up with the Perception of the Joneses,Springer Science+Business Media B.V. 2011, p.441」

 このComparison and adaptationという二つの問題はすでに10以上前に指摘されている。「註、Daniel Nettle, Happiness, Oxford University Press,2005,p.43」
Adaptationの恐ろしさに注意を払わない人は多い。
 「慣れ」とは、例えば健康な人が、自分が健康であることになれてしまうことである。
 慣れていない人は健康で会社に行けるのはありがたいと感じる。それが出来るのは当たり前のことではないからである。

 ある深刻な坐骨神経痛の人である。消耗しきて朦朧としていた。疲れ果てて、倒れそうになった時に、椅子を見つけた。
 しかし坐骨神経痛だから座ると痛い。座りたいけど痛くてすわれない。
そんな時に超高級なホテルに行ってもロビーで、休む場所はない。柔らかいソファーを見ても、それは凶器でしかない。それらは刃物で自分を刺してくるものでしかない。
 家にいる時を除いて、どんなに肉体的に苦しくても道端で寝転がって上を向いて寝る以外に、彼にとってこの地球に自分のいる場所はない。
 彼は山火事の起きている山のなかにいるような恐怖感に襲われていた。
 椅子に座れる、それは信じられないほどの幸せなことである。「椅子に座れる」というのは当たり前のことではない。
 健康な人にはマサージチェアーは居心地の良いものである。しかし彼にとっては凶器である。
 そよ風が「気持ちよい」と感じて幸せを感じられるかどうか。それが「慣れ」の問題である。

 ある60代の男性が脳梗塞になった。その後脳梗塞は治ったのであるが、色々な事柄について人生に対する考え方が変わった。
 それまでは60代になり夜中にトイレに起きる回数が増えて歎いていた。歳をとることだけが原因かどうかは別にして、夜中に度々起きることで、睡眠は妨げられる。その男性は夜中のトイレを歎いていていた。
 しかし脳梗塞を体験してから、自分でトイレに行けることがどんなに幸せなことかに気がついた。
 自分で起きて自分でトイレに行けることが当たり前と思っていたが、そうではないと分かり、夜中のトイレは嘆きから感謝に変わった。
何事も当たり前のことはないと初めて理解し幸せになった。

 最も不幸なのは完全主義者と欲張りである。
 恵まれていることを当たり前と思うばかりでなく、さらにその上を望む。
これらのものは容易に手に入るものと思っている。従ってこれらのものを手に入れるために努力しない。

 160人の患者さんについて調べてみると、痛みを受け入れている人の方が、幸せ感は強い。
痛みでさえも「痛みを受け入れる」と和らぐ。つまり「痛みを心配する」とかいうような直接的なことばかりでなく、憂鬱になりにくいとか、より活動できるとか言うことにまで影響する。「註、Alex J. Zautra, Emotions, Stress, and Health, Oxford University Press, Inc., 2003, p.129」
 それはシーベリーの言う「不幸を受け入れる」と言うことにも通じる。
 さらにアドラーの言う「何事も当たり前と思うな」と言うことにも通じる。
 痛みのないことを当たり前のことと思うか、有り難いことと思うかである。
 痛みのないのが当たり前のことと思えば、痛みは辛い。勿論痛みは誰にとっても辛い。痛みばかりではない。しびれだって何だって、体の不調は誰にとっても辛い。
 しかしどのくらい辛いかは客観的な痛みだけが影響するわけではない。
 紙面の都合で書けないが、ハーバード大学の麻酔科の教授のビーチャーの研究で、傷の深さは同じでも、その人の感じる痛みは違う。

 健康なのに、健康の有難さを感謝していない人は、無意識の領域で「自分は特別な権利がある」と思っている人である。
 この意識を捨てれば、自分の今の幸せに気がつく。自分は別に「幸せになれる特別な資格はない」と思えれば、今の幸せに気がつく。

 無意識の領域で「自分は特別な権利がある」と思っている人は、仕事があっても、友達がいても、財産があっても、家族がいても、恋人がいても、それに意味や幸せを感じていない。
それらのことに慣れて当たり前と思っている。
 健康も孝行息子を当たり前と思っている。全てを持って不幸な人もいれば、何もなくて心の安らかな人もいる。

 今、私は何に囚われているのか?
 なりたかったけれどなれなかった職業か、すでに別れた恋人か、皆の前で自分を侮辱した「あの人」か、褒めてもらいたかった人に失望された日のことか、親の期待に添えなかったことにまだこだわっているのか、考えていけば数かぎりないほどのことが考えられる。
 その囚われから解放されれば、今の自分の幸せに気がつく。
 その囚われに脳が占拠されていれば、今の自分の幸せに気がつかない。それは薬物依存症と同じである。
今の自分の幸せに気がつかない人は、脳がドラッグに占拠されているのではなく、その「何か」に脳が占拠されているのである。

 苦しみの原因を受け入れるから、幸せになれる。不幸を受け入れるから幸せになれる。
 集団自殺をしていったヘブンズ・ゲイトのように恐怖感に怯えながら「私は世界一幸せであると」言い張った人たちもいる。偽りのプライドから正直に自分の気持ちを認めない。
 自分の不幸を否定するから、自分の幸せに気がつかない人もいる。いつまでも不幸になる。
 世界一幸せになろうとするほど欲張りだから、不幸を抜けられない。
そういう人はロロ・メイのいう「自己の内なる力」を感じることで、世界一幸せになろうとはしない。

 今の自分の苦悩の原因を突き止めていけば、自分の幸せに気がつく。
 「なんか幸せでない、なんか私たち変だ」という苦悩の気持ちの原因を突き止めていけば、最後は自分の幸せに気がつく。
 私が訳した「ブレイン・スタイル」という著作によると現実はあなたがつくる。脳内情報は外からの情報の何百倍という。
 
解剖学のデヴィット・フェルトン教授は犬を連れて通り歩く。そして歩いている犬を見た人の反応を調べた。通り歩いている人の反応は違うと。
 犬に嚙まれた人がいる。アドレナリンが出る、交感神経が最高に活性化する。心拍数が上がる、瞳孔が開く、気管支が拡大する。「註、こころと治癒力、草思社、291頁」。
 違いは「外からの刺激」にはない。犬に対する「その人の過去の経験」が問題である。
 人は、刺激に対してその人だけの個人的な仕方で反応する。
 怖いのは犬ではなく、問題は、怖がっている自分であると気がつくことである。
幸せを感じない原因は対象にはない。自分のパーソナリティーにある。

自分の心が、ある問題に奪われたと認識したら、自分の現実認知は歪んでいると思って間違いない。
1%の問題を90%だと思っている。顕微鏡で悩みを拡大して見ている。
ヘロインで恍惚としているのではなく、悩みで恍惚としているのである。「Edward M. Hallowell, Worry, Panteon Books, A Division Of Random House, Inc., New York Edward M. p60.」
 そして90%の幸せを見失っている。

一般には前頭前野のある大脳新皮質と扁桃核のある大脳辺縁系は知性と感情でバランスを取るが、この悩みについては相乗効果を発揮してしまうとハロエルは言う。
危険を感じ取った扁桃核と前頭葉との間で信号のやりとりが続いて悩みは膨れ続ける。不安もふくれ続ける。
脳を調べてみると、悩んでいる人は脳のcingulate cortexと言う部分が活動しすぎている。
「毒による恍惚状態」とハロエルは言う。
 無名兵士の言葉は、毒を消してくれる。

 ハロウエルが言うとおり悩んでいる人は眉間にしわを寄せ、空を見つめている。眼の焦点が定まらない。悩みにとらわれて、周囲に気がついていない。「なぜなら悩みが彼の脳を捕らえているからである」。「Edward M. Hallowell, Worry, Panteon Books, A Division Of Random House, Inc., New York Edward M. p60.」。
 ではどうするか。
悩みが脳を捕らえているのだから、それを解き放たなければならない。
「お前一人が悩んでいるんじゃないんだよ、みんな問題を抱えて生きているんだよ」等と言っても、悩んでいる人は耳を貸してくれない。
また自分が悩んでいるときに、自分にそう言い聞かせても悩みは消えない。
 悩みが脳を捕らえているとは、脳がその様なホルモンで満たされているということである。それは先にも述べたように「毒による恍惚状態」「Edward M. Hallowell, Worry, Panteon Books, A Division Of Random House, Inc., New York Edward M. p60.」なのである。

 何かに深刻に悩んだとき、「今私の脳は毒に犯されている」だけだと自分に言い聞かせた方が良い。

 苦悩を突き詰めていないから、夕陽もそよ風も幸せを与えない。今味わっているもので満足出来ない。そこで「もっと、もっと」味わおうとする。

 自己喪失しているからやることなすことを人に見せるのである。人に見せて、誉めてもらってはじめてそれをした意味がある。自分のしたことで幸せを感じることが出来ない。
自分の今の苦しみの原因を突き詰めていけば、自分は、「本当の自分」に気がついていないということに気がつく。
 本当の自分が分かれば、自分が本来いる場所もわかる。自分が本来いる場所にいれば、「毒による恍惚状態」から解放される。
そして自分の幸せを感じる。
 さらに自分の居る場所に気がつけば、自分の可能性を実現する道も見えてくる。人とコミュニケーションできる。

自分が本来いる場所にいないで苦しんでいる人は、自分の包装紙に気を奪われていて、自分の内容に気がついていない。
「大きなことを成し遂げるための力」「幸せになろうとする富」、それらは皆包装紙でしかない。
包装紙に気を奪われて「毒による恍惚状態」に陥った人は、「今この瞬間を生きる能力を失っている。」「註、Karen Horney, Neurosis and Human Growth, W.W.NORTON & COMPANY, 1950, p.35.」 
 まだ毒を吐いていない人は、今この瞬間を楽しむことが出来ない。今相手と一緒にいる時間を大切にしない。
 心がふれあうことがない。心の拠り所がない。
 しかし毒を吐いて、「自分の内なる力」と幸せに気がついた時に、「ああ、無名兵士の言葉の通りだな」と思うにちがいない。
 そして自分こそは「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた「中略」私はもっとも豊かに祝福されたのだ」と気がつくだろう。

<あとがき>
 この本では無名兵士の彼が本当に求めていたものはなんであったかということを考えた。
彼が「祝福されたのだ」という意味は、「心の安らぎを得た」ということであろう。自分の「心の居場所を見つけた」ということであろう。
 「求めたものは一つとして与えられなかった」というが、実は心の底のそのまた底ではそれらのものをもとめていたのではない。
 それらのものは彼の優越感コンプレックスから求めていたものに過ぎない。彼のパーソナリティーの根底には不安定感があった。
彼が本当に求めていたのは、安定感のあるパーソナリティーであり、心の安らぎであり、心の癒やしである。
 彼は、今それを得たのである。それが「私はもっとも豊かに祝福されたのだ」という意味である。
 「世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めた」のは彼が、優越感コンプレックスや劣等感コンプレックスに苦しんでいたからである。
 根強いコンプレックスが癒されれば、「幸せになろうと富を求める」必要がなくなる。
 彼は最後に「願いはすべて聞き届けられた」という。彼は、優越感コンプレックスや劣等感コンプレックスが消え「本当の自分」がわかり、自分の幸せに気がついたのである。
 彼は、自分の心の居場所を見つけることで、「願いはすべて聞き届けられた」と感じた。「孤立と追放」から人との心のつながりを持てた。

この本は、台湾でも翻訳出版されています。

出版社: PHP研究所 (2018/12/22)
ISBN-10: 4569842313
ISBN-13: 978-4569842318

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