心を安定させる言葉

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「人に嫌われるのがどのくらい怖いかとか、「低く評価されるのがどのくらい恐ろしいかとか言うことはその人の自我の確立の程度にかかっている。その恐怖と不安が大きければ大きいほど自我は未確立である。私は若い頃「八風吹けども動ぜず天辺の月」などと言う格言をノートに書いて、それを生きる目的にしていた時があった。とにかく心の動揺を抑えようとしていた。生きる目的としては間違っていなかったのだと思っている。しかし自我が未確立でどんなに「八風吹けども動ぜず天辺の月」と自分に言い聞かせても、些細なことで心は動揺してしまう。一口で言えば、自我が未確立な人は他者に負けている。他者に飲み込まれている。他者に圧倒されている。批判されれば激怒する。激怒しないときには落ち込む。神経症的傾向の強い人や、ナルシシストや、深刻な劣等感のある人などは、得意になったり、落ち込んだりという心の揺れが激しい。「自分を見失うこと」は、さらに進むと気分沈下と恍惚の両極端へと行き過ぎる。「註、Hubertus Tellenbach、 MELANCHOLIE、Springer−Verlag、1961。メランコリー、木村敏訳、みすず書房、1978、45頁」

アドラーは生きるのに望ましくない性格の一つとして異常敏感性と言うことを上げている。「註、Social Interest:A challenge to Mankind,By Arfred Adler,Translated by John Linton, M.A., and Richard Vaughan, Faber and Faber LTD,24 Russel Square Lindon,p.159

マスローは同様のことを、相手に重心が行ってしまっているとのべている。「註、Abraham H. Maslow, Toward A Psychology Of Being、D.Van Nastrnd Co. Inc. , 1962, 完全なる人間、上田吉一訳、誠信書房、昭和39年、6月10日、80頁。カレン・ホルナイは神経症者にとって他者に認められることは生命的に重要であると述べている。「註、Karen Horney, Neurosis and Human Growth, W.W.NORTON & COMPANY, 1950.

心を安定させるためには、心を安定させる生き方を考えることは大切である。しかしそれ以上に大切なことは心が安定しない原因を突き止めて、それを解決することを考えることである。何も原因がなくて木は枯れない。陽があたらないから枯れる。

「何で私はこんなに心が不安定なのだろう?」と、考えて行けばいい。その原因は必ず分かる。例えば小さい頃からストレスの強い環境にあったとか等々が色々と分かってくる。ただそこで「私は心の安定していない人間だ、だから駄目だ」と自己否定してしまったら生まれてきた意味がない。過去に囚われて、未来を失ってはいけない。

心の安定してない人は、ずるい人や卑怯な人などそんな人の態度など無視すれば良いのに、無視できないで、心が大きく揺れ動く。今かかわった人の態度が、引き金になって、昔の屈辱感が蘇ってくる。そして心がかき乱される。フロム・ライヒマンが言う様に、小さい頃母親から愛されなかった人は、対象無差別に人から愛されたい。「註、Frieda From-Reichmann, Psychoanalysis and Psychotherapy, 1959. 人間関係の病理学、早坂泰次郎訳、誠信書房, 369頁。」つまり対象無差別に人から心を乱される。元々分かってもらえない人から、分かってもらおうとする。そのことで感情が揺れ動いてしまう。悔しい気持ちになる。悔しがることではないのに悔しくなるのは、小さい頃から、気持ちを理解してもらっていないからである。小さい頃、誰からも気持ちを理解してもらえないで、悔しい気持ちを抑えていた。それが根雪のように心の底に積み重なっている。その積年の恨みに、関係のない人の一言で、火がつく。不愉快になることではないのに、不愉快になる。八風吹けども動ぜず天辺の月の正反対である。小さい頃に一生懸命努力した。しかしそれを認めてもらえなかった。兄弟の中でいつも不公平な扱いを受けていた。それも我慢した。何もかもが我慢、我慢で成長して、大人になった。心の底には計り知れないほどの悔しい気持ちが抑圧されている。小さい頃から、自分の努力や貢献にふさわしい扱いを受けなかった。不公平な扱いを我慢して成長してきた。心の底には計り知れないほどの怒りが抑圧されている。単純化して言えば、小さい頃から苛められて生きて来た。屈辱の上に屈辱が重なり、その重荷で心は倒れそうになっている。そのことに気がつかないで、長年にわたって生きて来た。意識の上では心は屈辱を忘れている。しかし無意識の領域ではちゃんとそのことは刻まれている。今のかき乱される感情は、小さい頃に闘うべき時に闘わなかったツケのようなものである。闘わないで我慢して、怒りを抑圧して生きて来た「つけ」である。小さい頃から軽く扱われてきた。悔しかった。その悔しさを抑圧して、「良い子」を演じてきた。周囲の人にとって苛めやすい人になった。幼児の頃から欲求不満な人の感情の掃きだめになった。小さい頃苛められた子は、苛められやすい子になって、会社に入っても苛められている。余りの屈辱に、心は屈辱に麻痺していながら、大人になるまで孤独の中で怯えて生きて来た。その悔しさを誰も理解してくれなかった。そうして大人になって、怒りで心をかき乱されるほどのことでもない事柄に、心はかき乱される。感情的に振り回されるようになったのは、それだけ解放されてきたと言う事でもある。無意識にあるものが、火山の噴火のように動き出したのである。しかし孤独だから、怒りながらも恐れも大きい。怒りながらも、何か大変な事になるのではないかと怯えている。

「幸せの心理学」「註、Michael Argyle, The Psychology of Happiness,Routledge,2001の中に、幸せな人はinternal controlがあると言う主張がある。internal controlとは意識と無意識の乖離がないことである。意識と無意識の乖離があり、無意識の必要性があれば、内的なコントロールはあり得ない。意識と無意識の乖離があれば、幸せではありえない。「人に嫌われるのを怖れるな!」と自分に言い聞かせることも良いが、意識と無意識の乖離があるということをしっかりと意識することが先決である。先ず自分の人格が統合化されていないことを理解することである意識と無意識の乖離があるから不幸なのに、お金がないから不幸と考える人が居る。お金があるかないかは、生活が快適か快適でないかとは深く関係している。食べるものがあるかないかに関係している。それは生存の問題であって、実存の問題ではない。もし本気で幸せになりたいなら、意識と無意識の乖離をなくすことである。「人に嫌われることを怖れて、心の安定していない人は、生活に問題を抱えて居るよりも、心に問題を抱えて居る場合が多い。

ハーヴァード大学の心理学教授であったオルポートが反ユダヤの女子学生を研究したところ、表面的には良く適応しているように見えると言う。礼儀正しく、道徳的で、両親や友達にも良く尽くしているという。しかしもっと深く調べてみると、激しい不安、両親への埋もれた憎しみ、そして破壊的で残酷な衝動が潜んでいたという。「頑固なパーソナリティーを研究した圧倒的な成果は意識と無意識の間に鋭い亀裂があるということを発見したことのようである」。「註、Gordon Allport, The Nature of Prejudice, A Doubleday Anchor Book, 1958, p.373 、原谷達夫・野村昭 共訳、 偏見の心理下巻、培風館、昭和36年8月25日、134頁」。頑なな人がいる。些細な失敗にいつまでも拘る。些細なことなのに「これだけは譲れない」とか「これだけは許せない」と言い張る。どうでも良いようなことを「絶対にゆるせない」という。そういう人な深い依存の欲求を無意識に持っていることが多い。その無意識にある深い依存の欲求が、「これだけは許せない」とか言う様な、些細なことに拘ることに変装して表れてくる。

感情が動揺している時には、重大な感情を自分に隠している。意識と無意識の乖離がある。「人はしばしばその重大な経験の記憶を欠いています。」「George Weinberg, The Pliant Animal, 1981 Martin’s Press Inc., New York, 加藤諦三訳、プライアント・アニマル、三笠書房、1981/11/10、120頁」。今の自分の心の安定を破壊している原因は必ずある。その原因を見つけることである。ところがその原因となって居る「重大な経験」を思い出すことには困難が伴う。重大な経験の記憶を無意識に抑えたのは、その人の恐怖感であり不安である。心の安定を得られない人は、今でもその恐怖感や不安がある。「人は決して自分が自分を破壊しているのだとは完全にはわかないでしょう。」「註、前掲書、120頁

だから心が乱されたときには「これは不愉快な事件ではなく、自分にはまだ気がついていないことを教えてくれた事件だ」と考える。そうした意味で、これは良かったこと。誰でも悩む。しかし悩み方は人によって違う。生産的に悩む人は「このことは自分に何を教えているのか」を常に考える。

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