人生は「捉え方」しだい

人生は「捉え方」しだい

よく「変えられないのは過去と他人、変えられるのは未来と自分」と言う。

そして多くの人は「それはそうだろうな」と思う。

ただ「どう変えたら良いのか」はなかなか分からない。まず「変える」と言うことが良く理解出来ない。

確かに過去は変えられない。そして過去から被った影響も変えられない。

しかし過去と言う事実の解釈は変えられる。そして「未来は変えられる」。そのことの意味は、実は「過去と言う事実の解釈を変える」と言うことでもある。

自分の過去を否定し続けていた人が、思い切って過去を受け入れれば人生に劇的な変化が起きる。

太陽が地球の周りを回っているように見えると言うことは変えられない。しかし実は地球の方が太陽の周りを回っているのだという様に見方を変えることは出来る。

事実と、過去には「事実はこのように見えた」ということは変えられない。

しかし事実はこのように見えていたけれども、実はこうなのだという「事実に対する認識」は変えられる。

事実は変えられないけど、事実に対する解釈は変えられる。自分は「白鳥である」と言う事実は変えられないけど、「醜いアヒルの子」と言う解釈は変えられる。

自分の過去の人生についての事実は変えられないかもしれないが、自分の過去の人生の認識を変えることは出来る。

それは自分の人生に対するコペルニクス的転換になることもある。

私達は誰でも自分の人生に対してコペルニクスになれる。自分の人生に対してコペルニクスなれる人となれない人の違いは、自分の人生の過去と言う事実の違いそのものよりも大きい。

過去は変えられないのだから過去について「ああだ、こうだ」と言ってもしょうがないという人がいる。これは決定的な間違いである。

過去はどんなに考えても考えすぎることはない。どんなに過去の自分を分析しても分析すぎることはない。

私達の人生の未来に影響するのは、過去の人生と言う事実ではなく、過去の解釈である。

変えられない過去を正しく分析し、未来に対して正しい態度を取る。これが決定的に重要である。

事実に対する自分の解釈が自分を侮辱しているのに、事実が自分を侮辱していると思う人がいる。

そこで事実を歪めてしまう。それが偏見である。

そうして自我価値の剥奪から自分を守ろうとして偏見にしがみつく。

そうして自分の人生の可能性を捨てていく。可能性を捨てたのは自分自身である。

「何が苦しさの本当の原因」を見極めることで、自分の潜在的な可能性を実現出来る。
自分の潜在的可能性を実現することの障害になるものを見極め、取り除く。
この本は自分の潜在的可能性を実現するための本である。
私達は事実によって影響されるのではなく、その事実の解釈によって影響される。このことは明らかである。
「註、Alfred Adler, Social Interest: A challenge to Mankind translated by Jphn Linton and Richard Vaughan, Faber and Faber LTD, p.26」

季節は美しい五月ばかりではないが、やはり生きていて良かった。

自己実現している人は、いろいろイヤなことがあるかもしれないけどやっぱり幸せ。

同じ状況で楽しく時を過ごせるのに、不愉快な気持ちで過ごす人がいる。

その人を取りまく事実は同じでも、その人以外の人であれば同じ体験をして楽しい時間を過ごせている。

両者の違いは周囲の世界の事実ではない。両者の違いは事実の解釈の違いである。

解釈を通して与えられる事実の影響の恐ろしさ、思い込みの恐ろしさに私達は気がつく必要がある。

自分の今の苦しみの原因は自分の心のあり方なのに、自分を取りまく現実であると言う解釈している限り心の苦しみはなくならない。

自分がしがみついている古い心の状態を変えるのは、自分自身である。

ある体験をして自分がダメだと思って落ち込んでいる人がいる。しかしその体験に凄い影響力を与えているのは本人の解釈である。そういう人は事実に負けたのではない。事実の解釈に負けたのである。

不安な人は、歳をとってちょっと衰えても凄いショックを受ける。

事実として同じ体験をしても元気な人もいる。そして「今日はそこまで出来た、この年で凄いなー」と思う。

うつ病者はいかなる失敗に過剰な反応をするが、楽観主義者にとって失敗はやる気の刺激剤である。もっと頑張る刺激と受け取る。失敗したからもっと意欲的になる。

逆境を自らへの挑戦と解釈して、逆境でやる気になる人もいれば、事実は逆境でないのに異常事態と感じてパニックになってしまう人もいる。

事実や体験が違うのではなく、失敗や逆境と言う体験の解釈が違う。

人は成功するから幸せなのではなく、楽観主義者だから幸せなのである。

楽観主義者は失敗しても幸せ。あくまでも幸せな人が失敗した。成功したからと言って幸せな人になる訳ではない。

失敗したからと言って不幸になるわけではない。もともと不幸な人が失敗しただけである。

悲観主義者は成功しても不幸。社会的に大成功した人が自殺する。あくまでも不幸な人が成功した。

最大の事実は自分である。

その自分をどう認識するか。

人は、理想と比較して自分を解釈するから不幸になる。

大きな誤りは現実の苦しみがなくなることが幸せであると思ったことである。人生に苦しみや悲しみはなくならない。

幸せな人と言うのは苦しい出来事に出会っても幸せ。勿論苦しい出来事が苦しいと言う事実には変わりない。

自分が病気になるよりも子どもが病気になる方が苦しい。しかし子どもが病気になって苦しくても、「子どもが生きていてくれて有り難い」と感じて、幸せであり続ける親もいる。

不幸な人と言うのは、どんなに喜ばしい出来事を体験しても不幸である。

不幸な出来事は不幸な出来事であり、嬉しい出来事は嬉しい出来事である。その現実は現実である。変わりはない。

子どもが肉体的に健康でも不幸な親は不幸であり、子どもが肉体的に病気で、苦しみながら苦労していても幸せな親は幸せな人であり続ける。

経済的に豊かになってもそれは現実の苦しみが軽減したので、心の苦しみは全く別。人は心の地獄で自殺する。

敵意を持っている人が、好意をもって世の中を見る。その人にとって世界が劇的に変わる。

自分を信じられない人が自分を信じられるようになれば、人生は劇的に変わる。世界は劇的に変わる。

あとがき

昔から恋をすると「痘痕もえくぼ」と言う。

眼からの刺激は同じでも、脳で処理されるときに痘痕が笑窪になる。

恋をすると同じ事実が違って見えてくる。本人の心が変わることの恐ろしさである。

自分を苦しめているのが、事実そのものではなく、自分と言う事実の解釈なのに、事実に苦しめられていると思い込んでいる人がいる。

もしそうなら、その解釈の思い込みに気がつかない限り幸せにはなれない。

心理的事実と客観的事実との違いは大きい。そして人は客観的事実ではなく、心理的事実で生きている。

つまり人から何を期待されているかを勘違いしながら生きている人は多い。

「自分は尊敬されているはず」と言う勘違いの思い込みで生きている人もいれば、「自分は軽蔑されているはず」と言う勘違いの思い込みで生きている人もいる。

事実は白鳥なのに、長いこと「醜いアヒルの子」と思って生きてきた人もいる。間違った思い込みで生きてきた。

そういう人は一人で勝手に悩んでいる。一人で悩みを作って生きている。事実は違うのだから。

事実、周りの人はそのことをその人に期待してはいない。でも本人はそのことを期待されていると思い込んでいる。

つまりその人は現実と接していない。

「現実と接する」、この一点を守れば解決する悩みは多い。

客観的に信じられる人に囲まれながらも、人を信じられない人がいる。

それは小さい頃に信じられる人が居なかったのである。小さい頃周囲の人は皆不誠実な人であった。

もしそうであるならば、大人になって周囲の人が何かを言ったり、何かをしたりしたときに、それを信じることはできないだろう。

小さい頃周囲の人が信じられるような人ではなかったと言うことは事実だが、大人になってもまだ周囲の人を信じることはできないと言うのは、その人の解釈である。

小さい頃の体験から今現在の自分と世界をイメージして、自分の人生の可能性を捨てている人は多い。

小さい頃の体験から造られた人生の土台を、改めて検証する。それが自分の人生のコペルニクス的転回である。

私たちは、今の世界の事実に反応するように心がけなければならないのである。

私達は事実と、事実に対する解釈と、その解釈から生み出されてきたものは、全く別なものだと言うことを知らなければならない。

それに気がつかないと、自分が一人で勝手に作り出した感情を、唯一の感情と思い込むことになる。その事柄に対してはそれ以外の感じ方はない様に思い込む。

そうして日々不愉快な気持ちに悩まされる。悩まされる必要がないのに、不愉快な気持ちに追い込まれる。

そして自分が自分で勝手に不愉快になったと言うことに気がつかない。

自分を苦しめているのが、事実そのものではなく、自分の事実の解釈なのに、事実に苦しめられていると思い込んでいる人が多い。

もしそうなら、その解釈の思い込みに気がつかない限り毎年宝くじに当たっても幸せにはなれない。

つまり私たちは不愉快な感情に苦しめられている時に、「もうどうしようもない」と思う。しかし実は他の感じ方がある。

本文中に愛情飢餓感の強い人は、病気になり、その辛さを訴えるときに周囲の人の同情を求めているときがあると書いた。

愛情飢餓感の強い人は、病気が辛いのではなく、病気になって皆が自分の方に振り向いてくれないことが辛い。

ところが多くの場合病気が苦しいと思っている。

事実によって不幸になって居るのではなく、事実に対するその人の独りよがりな解釈によって不幸になって居る人があまりにも多い。

この困難は、自分が目的を達成するためには乗り越えなければならないと思えば、つまり困難をその様に認識すれば、困難は耐えられる。

困難そのものよりも、その困難をどう認識するかで、困難の大きさは違ってくる。

同じ苦しみでも、その苦しみをどう認識するかで、耐えやすくもなるし、耐えがたいものにもなる。

この苦しみが自分の将来のために意味があるのだと思えれば、苦しみは耐えやすくなる。

この本では事実の解釈に重点を置いた。それは事実が重要ではないという意味ではない。

苦しいときに間違っているのは事実の解釈のことが多いと言うことを言いたかっただけである。

事実の大切さについては状況の重要性として書いているが、この本では事実など意味がないと言っているのではない。

この本は毎日新聞社から四冊目の本であるが、私にとって長い人生で忘れることの出来ない1冊である。

先ず長いこと私の電子書籍を配信し続けてくれた中村由起人取締役にお世話になった。

次に私が若い頃「愛すること優しく生きること」と言う本を毎日新聞社から出版してくれた永上敬氏に四半世紀ぶりにお世話になった。若い新鮮な編集者が活躍する名編集長になられていた。

「愛すること優しく生きること」出版の後「今度ゆっくりと研究室で企画を話しましょう」と話してからお互いに眼の回るような忙しい25年が経ち、中村取締役のお世話で今日となった。

実際の編集作業は若くて豊かな視点を持つ井上晶子様にお世話になった。

皆様にお世話になっていることに、心より感謝を表したい。

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