2000

冬は心の中に灯をともす季節 [2000/12/21]
 
冬は心の中に自分で灯をともす季節である。夢を抱く季節でもある。心の中に自分の世界を作る季節である。
 
雪が降り、木枯らしが吹き、一年のイヤなことを一掃してくれる。冬の寒さは一年のイヤなことを心の部屋から掃除してくれる。冬は全てを受け入れる季節である。
 
冬の寒さは冬の雰囲気の中で感じる。葉が落ちて寒々としている。もし緑の葉が茂っていたら、ここまで冬は寒いだろうか。夏の海はブルーだけれども、冬の海はブルーではなく灰色である。

冬の季節と達成感 [2000/12/15]
    
冬がきた。  秋が終わり冬が近づいてくるときに「とうとう冬が来たなー」と感じる。そして「ここまで今年も生きてきた」と自分の努力を振り返る。
 
手抜きして生きているとこの達成感がない。人を利用して甘い汁を吸って生きている人には、この感慨がない。努力している「ふり」をして生きてきた人には「あー、ここまで来た」と言う達成感がない。
 
神様は誠実に努力して生きてきた人と、ずるく生きてきた人とでは違ったものを与えている。ずるく生きている人はトクしたと思っているかもしれないが、生きる喜びは得ていない。

初冬の葉の散ぎわ [2000/12/11]
  
冬が来て潔く散っていく銀杏の葉を見ていると、「執着してはいけない」と言うことを教えられる。しかしなかなか散っていかない葉もある。葉が散るのが嫌で木にしがみついているようなのが人間でいうと執着性格であろう。
 
葉は散るから来年もまたきれいに芽が出てくる。耐えるとは葉が散って、また秋がくるまでじっと耐えることである。
 
冬の木枯らしに耐えるのにエネルギーを使うことが生きる事である。しかし心が病んでくると木枯らしに耐えることにエネルギーを使わないで、散るまいと木にしがみつくことにエネルギーを使ってしまう。そして散ってしまうと時を待たないですぐに若い芽を出そうとする。
 
人間は捨てることが大切である。そして熟成する期間を耐えることである。そうして成長していくのである。人間は心が病んでくると使うべき場所でない場所でエネルギーを使ってしまう。
 
うつ病になるような人は銀杏で言えば散ぎわの下手な人である。

秋のカラス [2000/11/30]
 
秋の日溜まりの雰囲気に雀があっている。また秋の陽が沈む頃カラスの「カー」と言う鳴き声は山の里の雰囲気にあっている。どちらも哀愁を帯びている。
 
しかし都会で残飯をあさっているカラスの姿は浅ましい。それはどう猛でどん欲である。カラスは都会に居てはいけない。里のもやの中にいれば愛されるものを都会の残飯をあさるからにくまれる。
 
人も同じである。自分の居場所を間違えるとカラスと同じことになる。人々から愛され好かれる人が、居場所を間違えるが故に憎まれていることがある。
 
カラスの鳴き声は晴天の日にはあわない。

自然の教え [2000/11/25]
 
自然は生き方を教えてくれる。春咲く花は自分のために咲いている。それは花の自己実現を表している。秋のもみじが散るのは「よく頑張ったー」と言う達成感を表している。
 
春の道路は浮いているが、秋の道路は広がっている。
 
春の色は輝いているが、秋の色は空に染まっている。
 
同じ車でも夏の陽の降り注ぐ車と、冬の陽があたる車では色が違う。冬は色が沈んでいる。夏は車の上に太陽が燦々と降り注いでいる。

哀愁の秋 [2000/11/13]
 
自分を愛して散っていく銀杏の葉。
 
夕方の空は、自然の木に「ごくろうさーん」と言っているようである。その秋の空は高い。
 
もし秋の空が低ければ街ゆく人々の気持が落ち込む。街を歩く人もイヤになってしまうだろう。低い空の下で秋の木々の葉が木枯らしが吹いて散っていったら、気持ちが暗くなる。
 
幸い日本の秋の空は高い。そして木枯らしと大雨は一緒に来ない。秋にはスコールと言われるものがない。もしそんな激しい雨があれば葉はいっぺんに散ってしまう。
 
秋の雨はしとしとと降る。それがあの秋雨である。
 
吹く風も体に巻き付いてくる。吹き上げる風でもない。木枯らしも夏の風のように上から吹きつけてこない。
 
そして街を歩く人々のファッションが秋の色になり、街は落ち着く。

秋のはかなさと強さ [2000/11/09]
 
春先の街はなんとなく埃っぽいのに比べて、秋の街は埃っぽくない。そして物寂しいがどこか「りん」としている。
 
秋には「はかなさ」の持つ強さを感じさせるものがある。
 
散っていく銀杏の葉。「あと一日頑張って咲くぞ」と言う強さである。花だけが咲くのではない。もみじは葉が「咲いている」のである。もみじは葉が花になるのである。
 
それぞれの木はその木なりに全盛期を迎え、そして葉は花と同じようにめいっぱい咲き、散っていく。
 
桜よりも銀杏やもみじの方が強さを感じる。桜は散った後に若葉が出る。その点で桜には夢がある。銀杏にはそれがない。
 
だからこそそこに「ものの哀れ」を感じさせる。
 
銀杏だってベストを尽くしている。その銀杏を見ると、私も今年も後残された二ヶ月を頑張ろうと思う。

秋の匂い [2000/10/28]
  
秋の暖かさ。

林の中を歩いていればもちろんであるが、町を歩いていても、ふとそれぞれの季節にはそれぞれの匂いがあるような気がしてくる。
秋には秋の匂いがある。コスモスの匂いとも言えるし、イチョウの葉の匂いとも言える。あるいは「陽だまり」の暖かさのする匂いでもある。
 
その陽だまりの暖かさは全てを包んでくれる「母なるもの」の暖かさである。それは孤独を癒してくれる暖かさである。これから清められた冬の寒さに突進していく予感のする暖かさである。
 
秋の暖かさは春の躍動感のある暖かさとは違う。この季節にはそんな暖かさを味わいたい。

僕は秋が好きです [2000/10/23]
 
前のコラムで一日一日を大切に生きようと書いたら唐突に感じた方がいたようです。なぜそんなことを突然書いたかと質問を受けました。なぜかというと訳があります。
 
実は僕が秋が好きだからです。この時期になって「いい気候だなー、気持いいなー」と思い、そしてこの秋ももうじき終わり寒い冬が来るのだと思ったときに、「あー、この心地よい秋の一日を大切にしよう」とおもったのです。
 
そうおもっていたら、何も秋だけではない。この人生も大切にしなければと感じてきて書いたのです。

一日一日を大切に生きる [2000/10/17]
 
一日一日を大切に生きよう。
 
「たった一度の人生だよ」とか「そんなことをしていても、そのうちに死んでしまうんだよ」とか言うことは言い訳ばかりして生きている人達にはあまり意味がない。それはその人たちが本当には生きていないからである。現実から逃げている人達は自分が生きていると言う感覚がないからである。
 
生きている人間が、始めて自分が死ぬと言う感覚がある。だから「このたった一度の人生」と言う感覚がある。
 
今日一日を大切にしようという気持になるのは、生きている人たちである。

過度の一般化について [2000/10/02]
 
つい最近まである全国紙の夕刊にコラムを書いていた。そこにあるアメリカの小学校と日本のある小学校を比較した。すると最後に「これが日米教育の違いである」と付け加えられていた。発刊直前に気が付いたので直してもらったが、このような経験は多い。
 
記者の報道ならまだしも私自身の名前で書かれている文章である。ある出版社は著者とは名ばかりで編集部が書いていると言う。
 
ある学校とある学校の比較より日米の教育はこう違うと書いた方が読み物としては面白い。つまり過度に一般化したほうが人は面白く読む。
 
私たちは情報化社会だといいながら、実はその情報はかなり過度に一般化されてつたわっているのではないか。つまり情報化社会で世界を知っているつもりになっているが、あまり本当のところは知らないでいることが多いと私は思っている。

ホームページを開設するにあたって [2000/09/01]
 
今回ようやくホームページを開設することが出来ました。川島啓君が中心になって研究室の学生が協力してくれて作ったものです。
 
どのようなホームページにするかというホームページのコンセプトが明確でないといけないと言う問題があり、開設が遅れましました。つまり作家としてのホームページか、教授としてのホームページかという問題がありました。
 
私自身とすれば、教授としての活動は作家としての活動に学問的な基礎を与えてくれるし、作家としての活動は教授としての活動に創造性を与えてくれるわけです。
 
そこで教授としてのホームページと作家としてのホームページと二つ作るよりも出来れば一つにしたいと思いました。そのためには技術的に担当してくれる人がそのことを理解してくれることが必要でした。今回中心になってくれた川島君が私の活動を理解してくれてホームページを開くことが出来ました。
 
このホームページを通してより多くの人と交流できればと思います。