アメリカのボストンの郊外にザ・フェッセンデン・スクールという学校がある。

アメリカのボストンの郊外にザ・フェッセンデン・スクールと言う学校がある。日本の小学校一年から十年生までの教育をする名門校である。
 
そこに入学した日本の小学生が次のように言った。「日本では成績が悪いと叱られる。でもここでは成績が悪くても叱られないが、うそをつくと叱られる」。すべてのアメリカの学校がこの様な素晴らしい教育をしているとは思わないが、アメリカの草の根の健全性を示すものである。
 
問題は結果としての成績の善し悪しよりも、その成績に至る過程を大切にするかしないかである。日本の大学では試験の時にカンニングが横行している。高等学校からの推薦で入学してきた学生がカンニングで捕まる現状である。小学校時代からの家庭教育、学校教育の失敗を表すものである。
 
彼等は、徒競走で一等になれば凄い人、ビリになればダメな人、こうした評価の中で成長してきた。こうした環境で育つ子供は自分の中に価値を見いだせない大人になっていく。
 
零点を取った子供に「あら、また零点とっちゃったの、でもね、偉いわね、カンニングする人もいるのに、それに名前をきちんと書いているもの、百点とっても自分の名前をきちんとか書かない人は自分の名前を捨てたようなものだものね」と誉める親が居なくなった。自分の中に価値を見いだせない親は子供の零点という結果ばかりに注意を向けてしまう。
 
だが生きていく上で心の支えとなる親は、零点を取った子供に「偉いわね、カンニングする人もいるのに」と誉める親なのである。人はなぜそんなに他人から認めてもらいたいのか。それは愛に飢えているからである。親の愛を知らないから他人からの評価に執着するのである。
 
「偉いわね、カンニングする人もいるのに」と誉めてくれる親を持てば、徒競走でビリになっても走りきった自分、苦手の徒競走を逃げないで走りきった自分に価値を見いだすことが出来るようになる。そして他人の評価に執着しないで生きられるようになる。
 
子供を評価する親は何よりも結果に注意をする。そして子供を評価する親は子供を愛してはいない。