人を褒めるためには日々その人を見ていなければならない

最近またいじめ問題が議論されている。いじめ議論ばかりではなく教育論で最も欠けていることの一つは観察である。「良い」先生や親の資格は日頃から子供を「見守っている」ことである。日頃から子供を「見守って」いない先生や親は子供のやることに口出しをするだけである。
 
教育には誉めることが大切だという。しかし人を褒めるときに嘘はだめ。子供でも嘘は知っている。人を褒めるためには日々その人を見ていなければならない。子供の試験の答案の字が奇麗だとする。日頃汚く書いていたとすれば「今回は字が奇麗だね、だから五十点も取れた、」と褒められる。日頃のその子の字を見ていなければ褒められない。それでなければ煽てになり、お世辞になる。
 
お世辞は相手に対する迎合である。楽をして相手に気に入られようとしているのである。煩わしさを避けて適当にしているだけである。
 
その人の何処を褒めるかは常にその人を見ていないと見つからない。ヘアースタイルを褒めるか、服を褒めるか、ボーッと見ていても褒めることは見つからない。そして常にその人を見ている人は自信をもって褒められる。愛情とはその人を見ていることでもある。
 
植物でも手入れが大切。ただボーっと見ていたのでは豊作にはならない。馬も手入れが悪いければいい馬には育たない。ただボーっと見ていたのでは馬を慈しみ育てることにはならない。手入れが愛情なのである。この根本が分かっていなければどのような教育論も机上の空論である。大切なのは常に目をむけていること。
 
どんないじめ対策も親や先生の見守ることを抜きには効果を発揮することはない。
 
子供の家での態度を観察している親は子供が学校で苛められていることに気がつく可能性は多い。
 
教育には愛が必要であると「愛」と言う言葉を使うから混乱するのかもしれない。愛とは教育との関係で言えば、見守ることなのである。