「良い子」は会話が欲しい。

「良い子」は「こうしてはいけない、あーしてはいけない」と考えがちである。そして「自分はこうしなければ」とか「皆に自分をこう見せたい」と思う。それよりも「こうしたい、あーしたい」と言うことを見つけることが幸せにつながる。

そして実は子供が自分の好きなことを見つけるように励ますのが親の愛なのである。

子供が車が欲しいという。もちろん玩具の車である。そこで車をすぐに買ってあげる母親がいる。子供がファミコンが欲しいという。するとすぐに買ってあげる母親がいる。

そして母親の方は子供には欲しいものを全て買ってあげていると思っている。しかし果たしてこの状態で子供が欲しいものを買ってもらっているだろうか。
おそらく子供は欲しいものを全て買ってもらったとは思っていない。子供が「車が欲しい」と言う。

そこで母親が「どんな車?」と聞く。

「真っ赤な車だよ」と子供が言う。

「消防車?」と母親。

「違うよ」と子供。

「じゃー、どんな車?」と母親。

「スポーツカーだよ」と子供が言う。

こうした会話をして車を買ってもらって子供は「欲しいものを買ってもらった」と思う。この会話が親子のふれあいでもある。またこうした会話をしながら母親は「今日は買わなくても良いかな」と判断する時もある。
ただ言われるままに買ってあげている母親は、ここまで子供を相手にしていない。

あるいはこうした会話の中で子供自身が自分の欲しいものをハッキリと具体化していける。子供は会話が欲しい。

また子供が好きなものを見つけるために無駄をできることが親の愛情である。
「良い子」の親は無駄が損だと思っている。

「自然な子」の親は、無駄が損とは思っていないから、子供を自然に育てられる。例えば、これも食べてごらん、これも食べてごらんと色々と食べさせてみる。その結果子供は自分が好きなものを見つけることができる。
子供を自然に育てる親は、無駄と思っても、あるいは無駄にしても、お菓子をいろいろと子供に与えて味をわからせる。

人は心が弾んでいるときには、与えることができる。「良い子」の母親は心が弾んでいない。親は自分が満足すると子供が無駄に食べたときに許せる。

「良い子」の母親は、「食べすぎては行けない」と言う。そしてお行儀が悪いと叱る。しかも一個しか与えない。