秋葉原無差別殺傷事件に見る成熟格差社会

秋葉原無差別殺傷事件のような驚愕の惨事ではないが、最近の悩んでいる人の特徴にはこの「かまってもらいたい」と言うのがある。
 これは約半世紀近くにわたって、悩んでいる人と接してきた私の最近の感想である。
 「止めてもらいたかった」と言うのは、先に「甘え」と書いた。「やめなさい」と言うことに、「やるよ」と言うことで相手を困らせたい。つまり甘えると同時に相手を困らせることで自分の存在を確認したいのである。小さい子供がそうであろう。子どもは母親を困らせることで自分と言う存在の手応えを感じたい。

 例えば四年で大学を卒業できないで留年しそうな学生が相談に来る。
 よく成績を見ると頑張れば卒業に必要な単位は取れる。そこで「頑張って勉強すれば卒業できるじゃないか」と言う。
 すると「大学に来て勉強ばかりしていたのでは大学生活の意味がない」という。「クラブ活動もしなければ大学に来た意味がない」と言う。
 「それでは親に話して留年をすれば」と言う。すると「親には話せない」と言う。
 「では勉強して卒業に必要な単位をとれば」というと、「それでは大学に来た意味がないから、それは出来ない」という。何度も同じことのくり返しである。
 つまりこの悩んで相談に来ている学生は私が困れば良いのである。私を困らせることで生きていることを確かめたい。

 これは主婦でも同じである。夫が不倫をしていることが夫のメールから分かった。
 しかし夫は「浮気をしていない」と言い張る。そこで悩んで相談に来た主婦に「メールのことをいえば」と言うと「それは言えない」と言う。「それでは我慢すれば」と言うと「我慢は出来ない」と言う。いつまでも同じことのくり返しである。
 しばらく繰り返して私が困ると元気になる。

 とにかく一方に極端に幼児化している若者が居る。
 しかし他方に極めて情緒的に成熟した若者たちもいる。

 私は昭和池田賞という論文の審査委員長を長らく勤めている。そこに応募してくる若者達は責任感が強く行動的で社会貢献を第一に考えている。今年はゲットーと呼ばれるイギリスのムスリム・コミュニティーでの生活体験を元に論文を書いた若者が賞をもらった。
 こんな危険な所に自ら飛び込んで地道な調査をする若者もいる。

 こうした社会現象を私は成熟格差社会と言いたいのである。所得格差や学力格差は眼に見えるが、成熟格差は眼に見えない。
 そこで眼に見える所得格差や学力格差は盛んに社会の歪みとして議論される。
 それに対して成熟格差は眼に見えない。しかし情緒的成熟の格差は所得格差どころではない。はるかに深刻である。それは天と地ほどの違いである。
 同じ三十歳の人の所得格差よりも、同じ三十歳の人の情緒的成熟の格差ははるかに深刻である。そしてこの歪みが社会にもたらす影響は極めて深刻である。

 次々起きる「殺すのは誰でもよかった」事件だけではない。ニート問題がしかり、ひきこもり問題がしかりである。
 家族の情緒的絆があり、かつ家族が社会から孤立していることなく、地域社会や血縁関係があるときには成熟格差は少ない。その上に、個人がむき出しで社会に接することはない。
 しかし情報化社会では成熟格差は大きい上に、個人がむき出しで社会に接している。どの集団も包括性を欠いている。と言うよりもグローバリズムが叫ばれる中では日本社会そのものが包括性を欠いてくる。

 「携帯がないと不安」と言う中高生が表現しているものは、既成の社会からの「孤立と追放」に怯えていると言うことである。
 携帯は社会的疎外感を克服するための代償的満足であると言うことを忘れてはならない。

 さらに秋葉原無差別殺傷事件の被疑者の「不細工」という深刻な劣等感である。
 著名な精神科医カレン・ホルナイが指摘するように劣等感は所属感の欠如である。
 「現実でも一人、ネットでも一人」と言う所属感の欠如があの「自分は不細工」と言う劣等感をも生んだのである。

 今、教育再生会議を始め、政府が若者対策に必死になっている。しかし彼らの社会的疎外感と言うことを考慮に入れないなら、道徳教育や携帯規制等々、いかなる政策も失敗するであろう。
 今しきりに地方分権と言っているが、問題は地方分権で解決できるものではない。
 政治暴力の研究家コーンハウザーが指摘するように「一般的にいって形式的な組織が大衆組織と認められるのは、その規模によってではなく、中央の指導者に対してある程度の自立性をもった中間的単位を欠如するようになるときである。(註;William Kornhasuser,The Politics of Mass Society,辻村明訳、大衆社会の政治、113頁、東京創元社、昭和36年9月)」。

 個人を結びつける家族も地域社会もないなかで、個人が暴走することを期待しないというのは、雪国で雪が降らないことを期待するようなものである。