薔薇とけいとう

バラのそばに生えていたケイトウが、バラにいいました。「あなたはなんて見事な花なんでしょう。神様からも人間からも非常に可愛がられていますね。」。けいとうは「あなたの美しい姿と、いい香りがうらやましい」と言う。すると、バラは「いいえ、私は少しの間しか命がない、誰も折らなくっても散ってしまう、しかしあなたはいつも花が咲いていて若々しく生きていてそれが私にはうらやましい」と言う。

他人から見て羨ましいと思っても、その人自身から見る視点では物事は違って見える。自分は自分なのだから、自分を受け入れて生きるのがベストなのである。もしケイトが「私はステキ」と言えば、おそらく薔薇も「私はステキ」と競うだろう。そしてお互いが不幸になる。だから相手を誉めて見ることである。すると相手の言葉で自分の幸せに気がつくことがある。バラはバラで自分の幸せに気がつく。

人は慰めあうと楽しくなる。相手の長所を誉めることである。相手を誉めると相手は裸になり、素直になる。しかし自分が淋しいときには相手を誉めない。孤独の人はたいてい自分の辛さを訴えている。

このときに相手を羨むだけの人が「自分を生きていない人」である。直接面と向かって誉めないで、心のなかで羨む。そしてこの相手を羨む気持ちがあるから、その人の周りに人は集まらない。人が集まらないから人を恨む。それがまた人を遠ざけてしまう。心の豊かな人の周りには、豊かな人が沢山集まる。素直な人の周りには、素直な人が沢山集まる。

一度悪いほうに回転しはじめると悪循環が続いて、生きるのがいよいよ辛くなる。最後にはそういう人を恨んでいる「自分を生きて行ない人達」が集まって、他人の悪口を言うようになる。偉そうな口をきいて人をけなす集団にはいると人生は地獄の門の前に来て居る。

集団で「偉そうに」人をけなしているのが心理的に一番楽なのである。自分は地道な努力をしないでもいいからである。自分の実際の実力を受け入れなくてもいいからである。自分の弱さを認めなくてもいいからである。だから街のチンピラは「あのセンコウ」等という口をきくのである。  自分の弱さを認め、自分の実際の実力を受け入れたときに、人生は天国の門の前に来て居る。

ケイトウは今のバラが羨ましい。咲き誇っているバラが羨ましい。しおれたバラを見れば違った感情を持つだろう。ケイトウはしおれたバラを見ればバラの言葉を納得する。ケイトウはバラの生き方をずーっと見ていない。どういうサイクルであるかを見ていない。他人を見て羨ましいと思い、拗ねたり僻んだりして人生を間違える人は多い。それらの人は羨ましい人の最も良いところだけを見ている。その一瞬を見て、羨ましいと思う。なぜか?それはその人にしっかりとした人生の目的がないからである。そして人生の目的がないから気持ちが焦っている。