65. 現代人のセックスは少しさびしんぼ(『自分に気づく心理学』)

『自分に気づく心理学』より

たとえば性が社会的に解放されるに従い、それは内的には負担となっていった。外側の規制がとれればとれるほど内的にはストレスがつよまっていった。
 
男性も女性も、自分がいかに素晴らしいかを相手に証明しなければならなくなったからである。そしてそれは同時にお互いにテストされるという心理的負担になった。人々はこのテストに合格しなければならなくなった。かくて男性の不能や女性の不感症が大きな間題となってくる。
 
お互いに親しさの結果として性的関係にはいるのではなく、自分の男性性、女性性を示すために関係を連成しようとする。もともと心にみぞのある神経症者などは、性的達成を通して親しい関係を確立しようとする。つまり結果ではなく手段なのである。
 
相手と親しくなれない神経症者にとって当然これは心理的負担となる。もともと他者との心の交流がうまくいかない神経症者にとって、性は心の障壁をのりこえる手段なのである。それだけにこれに失敗することはできない。
 
神経症的傾向の人間同志は、お互いに心の底で拒否しあっている。異性間であれ同性間であれそれは同じである。しかしお互いに心の底で拒否しあっていることを認めたくない。親しいのだと確信したがっている。お互いにひかれつつ拒否しあっているという両極的なことが多い。
 
このお互いの心の底の拒絶をのり越える手段が性の達成である。お互いに心の葛藤に苦しみつつ無意識のレベルで拒否しあっている以上、男女ともにこの企てに失敗することが多い。
 
それは人間は無意識に支配されるからである。無意識のレペルでの拒否がお互いの広い意味での欲望の達成の障害となる。お互いに心のみぞから眼をそらそうとして性を達成しようとしているのである。性の達成に成功すれぱ心のみぞから眼をそらすことに成功することになる。しかし事実としてお互いの心の間には深いみぞがある。

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