人間関係がうまく行かない人は、自分の善良な意図を強調するが、自分の自己中心性には気がつかない。

イソップ物語に「炭やきと羊毛をさらす人」と言う話がある。一軒の家をもった炭焼きが、仕事をしながら、近所に家をもった羊毛をさらす人に「友達になろう」という。その理由は自分と一緒に住めば、お互いに親しくもなれるし、一軒の家に住めば、安あがりに暮らせると言う理由である。ところが、羊毛をさらす人は友達になることを断る。それは羊毛をさらす人からみれば、炭焼きと一緒に住んだのでは、せっかく白くさらしたものを煤で黒くされてしまうからである。
 
これは炭焼きの自己中心性を指摘した話しであろう。友達がいないと不平を言う人は、この炭焼きのような態度で友達を作ろうとしているのである。だから友達を作ろうとしてもなかなか友達は出来ない。
 
このイソップ物語で大切なところは炭焼きは「友達になろうとしている」ということである。炭焼きが友達になろうと言う意図を持ちながらもうまく行かないということである。人間関係がうまく行かない人は、自分の善良な意図とか動機を強調する。しかし自分の自己中心性には気がつかない。
 
よく苛めで自殺した人に向かって「何で言ってくれないのだ」と言う人がいる。ある青少年の主張コンクールの大会に出席したときである。「何で言ってくれないのだ」という主張をした子供が賞をもらったのには驚いた。つまりその論理を審査員である大人が認めたということである。
 
自己中心的な人は「何で言わないのか?」といつも質問する。「何で言わないのか?」。それはその人に優しさがないからである。苛められて自殺した人に「何で言ってくれないのだ」と言う人は、自分が炭焼きであることに気がついていない。自分に優しさがないことに気がついていない。「何で言わないのか?」と言う前に、言える環境であったかを反省すべきだろう。
 
苛め論議を聞いていると炭焼きの論理が横行しすぎている気がする。これではいじめの解決は出来ない。
 
桜の木を切ったと正直に言ったワシントンが偉いのではなく、ワシントンの父親が偉いのである。父親と居ると子供は正直になんでも言える気持ちになるのである。人は誰にでも何でも言えるわけではない。その人には「何でも言える」と言う時には、その人は「優しい人」なのである。