【年頭所感】(2023年)

明けましておめでとうございます。

残念ながら、核の脅しに怯えながらの新年になりました。
ロシアどころか北朝鮮までも、核使用性の可能性は高いという人もいます。 

 イラク戦争の当時テレビを見ていたら、
有名なテレビ司会者が得意満面な顔をして「私は戦争反対です」と言った。
その「オレは格好いい」と言う隠されたメッセージを感じながら
私は「この人は一体何を考えているのだろう?」と思ってしまった。

と、言うのは、戦争に賛成の人はいない、誰でも戦争には反対だからである。

戦争と平和について人に聞けば、百人が百人戦争反対である。
しかし人類の歴史は戦争の歴史である。

 愛の仮面を被ったサディストがいるように、平和主義の仮面を被った好戦主義者もいる。
原子爆弾はロシアやアメリカや中国だけにあるのではない。
人間の心の中にある。そのことを忘れた戦争反対は、空理空論である。

 「原子爆弾までもわれわれ自身のなかにあるのです。」[註、時代精神の病理学、フランクル著作集3、宮本忠雄訳、みすず書房、昭和36年5月15日、135頁]

 平和を求める。その気持ちに嘘はない。
 しかしその気持ちよりも、憎しみが勝つ場合も多い。
 平和を求めていると、それが優先順位一位の望みと思ってしまう。
 人間が平和を求める気持ちよりも、人間の退行欲求の方が強い場合がある。
 偶像崇拝の恐ろしさである。

 皆が戦争に反対しているのに、人類の歴史は戦争の歴史である。
 そして南北戦争がなければ奴隷は解放されていない。アメリカの独立もない。
 従ってアメリカの独立宣言に影響されたフランス革命を始めとするヨーロッパ各国の革命もない。
つまり人権の思想のための革命もない。

 アメリカで一番尊敬されている大統領は、南北戦争をしたリンカーンだという。
 チャーチルとルーズベルトが戦争を決意しなければ、ヒトラーは倒されていない。
 戦争がなければ人類はヒトラーの奴隷になっているだろう。
 なぜ皆が戦争に反対をしているのに、人類の歴史は戦争の歴史なのだろうか?
 いくつかの主要な原因があるが、その一つはお互いの考え方や感じ方や価値観が一致しないからである。
 「話し合い」が成功しないからである。

 皆が戦争反対なのだから、「話し合い」が成功すれば戦争はない。しかし現実の世界には戦争がある。
 日常の生活でも同じである。喧嘩はイヤだとみな思っている。でも日常生活において喧嘩は絶えない。
 子ども同士の喧嘩から、親子喧嘩に始まり、職場も家庭も喧嘩、喧嘩である。
 ところでユングの外向型、内向型から始まって人間を類型化する説は色々とある。
 その一つにブレイン・スタイルと言う概念がある。

 脳の研究としてはケーガンの抑制型の人と非抑制型の人の方が有名で、大規模な調査によって人を分類をしている。
 ただ「話し合い」につて考えていくのにはブレイン・スタイルの概念の方が都合良い。
 ここでは、人間の類型化そのものが問題と言うよりも、大切なのは「話し合い」がいかに難しいか、それを成功させるにはどうしたらいいかが問題だからである。

 タイプの違う人の「話し合い」がどのくらい難しいかを始めに考えてみたい。

 「三匹の子豚」という童話がある。
 三匹の子豚がいて、母親がそれぞれに家を建てるように言った。一番目の子豚は早く家を建てて、笛を吹いて遊びたいので、わらで家を作った。二番目の子豚は、「早くバイオリンを弾いて遊びたいな」と思い、急いで木の家を作った。三番目の子豚はレンガで家を作った。
レンガが重くて一つづく運んで積み上げていくのに時間がかかり、たいへんだった。でも三番目の子豚は狼が来ても大丈夫なように頑丈な家を作ろうと思った。

 一番目と二番目の子豚はそれを見て笑った。しかし一番目と二番目の子豚は実際に狼に出会い、逃げるはめになる。わらの家はお狼に吹き飛ばされてしまい、二番目の家も壊されてしまう。そして三番目のレンガの家に逃げ込む。
 この家は狼が来てもびくともしない。狼は表から入れないので、煙突から入ろうとするが、子豚は大きな鍋に油をいれて、煮立たせた。そこに狼が落ちて、火傷をして逃げていくという物語であったと思う。

 家を作ったことのない三匹の子豚は家を作れといわれて、その作り方が各々違う。
 子豚には、この場合三つのタイプがある。
 もし母親がこの三匹の子豚に「みなで一緒に家を作りなさい」と言ったらどうなるか。
 「話し合い」はまとまるだろうか?
 三匹の子豚がみな「喧嘩はイヤだ」と思っていれば、喧嘩にならないだろうか?

 ある未知の状況におかれたときに人の反応は各々違う。たとえば山に登っていたとする。
 そこに予期せぬ雪が降ってきた。
 その時にすぐひきもどす人もいるだろう。
 立ち止まって様子を見る人もいるだろう。
 このまま山に登り続けるか、山から降りようかと躊躇する人もいるだろう。
 不安でたじろぐ人もいるだろう。
 洞穴を探す人もいるだろう。
 まず木が濡れないうちにどんどん集めて、火をつける人もいるだろう。
 自分のおかれている状況に反応する反応の仕方は人によって違う。

 みんな、山に登っているときに雪が降ってきたら「こうしなさい」と言うような登山講座の様なものを受けていない登山の素人とする。そのときに登山の素人がどう反応するかは人によって違うだろう。
 誰も今までの経験で対応できない。今までリーダーに連れられて山登りをした経験がない。だから記憶に頼って解決できない。

 この人達がグループで一緒に行動しなければならない時に、この人達はどうするだろう。
 不安な中で「どうしようか?」と「話し合い」を始めたらまとまるだろうか?
 早く態度を決めなければならないのに、なかなか決まらない。
 喧嘩にならないだろうか?

 「こうして使いなさい」と言わないで、子供に紙を与えたとする。
 「紙だー」と言って、紙飛行機を作って飛ばそうとする子どもがいるだろう。
 そういう子は紙飛行機で遊んでいる間に次々に遊ぶアイディアが浮かんでくる。
 ライフスタイルとよく言われる。それにならってだろうと思うが、『ブレイン・スタイル』と言うタイトルのかなり分厚い本がある。

 その『ブレイン・スタイル』と言う本の著者の言葉を借りれば、
おそらくこの子のブレイン・スタイルは「コンセプター」ということになるだろう。
 ブレイン・スタイルについては本に説明してある。
 折り紙にして静かに遊ぼうとする子供もいるだろう。
 丸めてマイクロフォンにする子供もいるだろう。
 中には一枚しかないから大切にとっておこうとする子供もいるだろう。
 その紙で漢字の練習をする子供もいるだろう。
 紙は勉強するためにあると思い込んでいる子供である。いつも成績優秀な「良い子」である。
 この子のブレイン・スタイルはおそらく「デリバレイター」であろう。
 その紙をたき火に加えて燃やそうとする子供もいるだろう。
 また一緒にいる子供が紙で勉強しようといえば勉強し、遊ぼうといえば遊ぶ子供もいるだろう。
 仲間との関係を大切にする子供である。この子のブレイン・スタイルはおそらくコンシリエーターであろう。
 「こうして遊びなさい」と指示されなければ、その子は最も心理的に楽な使い方をする。
 その使い方が子供によって違う。

 このときに「この紙で一緒にみなで仲良く遊びなさい」と言われたらどうなるか?
 子ども同士で喧嘩にはならないだろうか?

 全ての起きたことの背景には、人間性がある。
 神経症者がいなくなれば、戦争は終わる。
 不安な人ほど敵意を持ちやすい。不安な人ほど人を悪く解釈しやすい。
 そしてその敵意が間違っているとか、悪意の解釈が間違っているとか、いくら証拠があってもそれを訂正しようとはしない。それは、人は不安だからである。
 不安からの攻撃には常に偏見が伴う。

 「集団内部の欲求不満は非常に大きな慢性的な重荷であるから、これを洗い流すことができないのである。そこでいわゆる外集団の人々が、実際には集団内部に伴う欲求不満の責任を負わされることになり、無数の攻撃反応が彼らの上に置き代えられるわけである」[註、John Dollard Neal E. Miller, Leonard W. Doob O. H. Mowrer, Robert P. Sera, 1939, Yale University Press. Frustration and Aggression, 宇津木 保 訳、欲求不満と暴力、誠信書房、127頁]

 これが戦争の主要な原因であるが、国家間ではなく個人の間でもこの様なことは常に起きている。
 夫婦関係が上手く行っていない家庭の隣人は、常に被害に遭うし、職場の部下も被害に遭うし、生徒も被害に遭うことが多い。

 夫婦関係が上手く行っていない場合にはまさに「慢性的な重荷」であるから、耐えず不満を洗浄しなければならない。

 口を開けば上司や同僚の悪口を言っているビジネスパーソンがいる。
 そしてその攻撃的言動はすでに述べたごとく偏見に満ちているから、たいていは事実無根のことばかりである。
 2チャンネルなどはまさに欲求不満の洗浄の役割を果たしているのだろうが、いくら事実無根の悪口を言っても夫婦が上手く行っていないという現実が変わるわけではないから、事態の解決はない。

 不安から自分をまもるための敵意である以上、どんなに理由を説明されても、それを受け入れる訳には行かない。
 偏見のある人に事実を突きつけても、偏見はなくならない。構え直しで、認めない。
 欲求不満から偏見を持った人に「偏見を持つな」と行っても偏見を持つ。
 偏見が生きる支えだからである。
 死んでも現実を認めない人がいる。カルト集団である
 偏見で突っ張る。偏見で自我防衛する。

 人種主義者とは、自分自身が不安だから、人種という悪魔を作り出してきた人々のように思える。[註、Gordon Allport, The Nature of Prejudice, A Doubleday Anchor Book, 1958]。

 しかし時代が進むにつれて、次第に人種のような概念を出して、自分の不安を解決することが難しくなった。
 すると自分にとって都合悪い人に敵意を持って、それを攻撃することで、不安を解決しようとする人が増えてくる。

 人種という悪魔から上司という悪魔、隣人という悪魔、親戚という悪魔等々をつくりだして、それらの人を攻撃することで自らの不安を解決しようとする。

 当然人間関係が上手く行かなくなる。今までは外集団を憎むことで、不安を解決していた。
 それに変わるものが今必要になる。

 戦争を避けることを優先順位第一位にすると、人類は滅亡しかねない。
 もしチャーチルが戦争を決意しなければ、人類は滅びた、ヒトラーの奴隷になっていたかもしれない。

 人間関係の維持を第一にしないと言うことと同じ原理である。
 人間存在の矛盾を理解していない。つまりフロイドを理解していない。

 メディアは「アラブの春」と騒いだ時期があった。2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称である。
メディアは「プラハの春」と騒いだ時期があった。「プラハの春」とはチェコスロバキアで1968年の春から夏にかけて、新任のドプチェク党第一書記の下に一連の自由化政策がとられた状況である。
でも「プラハの春」は終った。ソ連が軍事介入してドプチェク政権を打倒して傀儡政権を樹立した事件である。
 「アラブの春」も、「プラハの春」も、そうあって欲しいと言う願望の外化である。
 メディアは聴衆の外化の心理に迎合しているだけである。「アラブの春」も「プラハの春」もこない。

 「正義を振りかざしても、現実はすぐには変わらない。」ある暴力団取材ライターがいる。自分も長男も襲撃されている。
 暴力団は皆が悪いと言っている。戦争反対を叫んでいるのと同じである。単に暴力団は悪いというのは、空疎な理想論でしかない。
 動機と行動は違う。
簡単に暴力団は悪いというのは、憎しみの合理化かもしれない。
 なぜ、みながそれが正しいと主張しているのに、それが行われないのか?
 テロは悪い、暴力はいけない、意見は一致している。

 市民はみな暴力団に反対。でも暴力団はなくならない。
 暴力はいけません。
 しかし組織化された暴力を否定した歴史はない。

 不滅の西部劇シェーン。
 どこから来てどこへ行くのか。
 村に来て、村人を苦しめているガンマンと一人で戦い、倒し、一人去って行く。利益を求めない、真の勇気である。
 去って行く姿を見て、シェーンと呼ぶ。
 悪を退け神に徹した姿、それがシェーン。人は、不滅の西部劇シェーンを見て感動する。「格好いい−、痺れる」と思わず人が言う。人間の心には神が宿っている。
 でも人間の心には同時に悪魔が宿っている。
 人間が矛楯した存在であることを解明し、どう乗り越えるかを考えるのが、心の学問である。

 人間が矛盾した存在だから、本能衝動と現実適応の両方が必要になる。そこでこの「表と裏」の使い訳が自我の確立になる。

 全ての人が戦争反対で、なぜ人類の歴史は戦争なのか?
 その難問に答えようとしたのが、フロイドの流れを汲んだフロムである。そしてその流れにいたのがカレン・ホルナイである。
「自由からの逃走」がその説明である。

 それが母親固着である。
 母親固着の第三段階の民族、国家、宗教的狂信の隠された真の動機は「不安と孤独」である。
 つまり個性化の段階に入った時の「不安と孤独」と言う心理的課題の解決に失敗して、民族、国家、宗教的狂信に走った。
 「自由からの逃走」がその説明である。

 何が成長をためらわせるのか?
 人にとって成長することがなぜそれほどまでに難しいのか?

 満たされない欠乏欲求が、固着や退行へと導く力である。安全や安定の魅力である。
 あくまでも心の安全や安定の魅力になかなか勝ってない。
人間の本当の使命、これが「苦しみは救済と解放につながる」。
不満ではなく不安を選ぶ事が、苦しみは救済と解放につながる。つまり成長を選ぶ事である。
意識領域の拡大が、人間の最大の使命である。Self-awarenessが最大の使命である。

  自分自身であろうと決意することは、人間の本当の使命である。[註、Rollo May, The Meaning of Anxiety, W.・W・Norton & Company・Inc. 1977, p.40]。

自分自身であろうとする決意の最大の障害は「孤立と追放」

眼に見えない麻薬、それは近親相姦願望を満たすものである。人は無条件の賞賛を求める。

 つまり一人一人が自分自身であろうと決意することが戦争を防ぐ最も確実な方法なのである。
 そして自分自身であることを決意する。その意志の中心は自分を認識することを拡大することだとロロ・メイはいう。
 「この意志は創造的に果敢であることであり、中心は自分を認識することを拡大していくことである。」[註、Rather, this willing is a creative decisiveness, based centrally on expanding self-awareness. 「註、Rollo May, The Meaning of Anxiety, W.・W・Norton & Company・Inc. 1977, p.40]。

「われわれは高いパンの値段ものぞまない、われわれは安いバンの値段ものぞまない。われわれは不変のパンの値段ものぞまない。われわれは国家社会主義のパンの値段をのぞむ。」
 そう叫ぶ時に、ゲルマン民族が「母なるもの」になる。
 それは母親固着しているナチスの若者の孤独の叫びである。そこまで共同体的人間関係を望んでいた。
 機能集団的人間関係では安いパンがよい。

「ドイツは生きねばならぬ、たとえ我等は死なねばならぬとも」
「お父さんに殺されてもヒトラーに忠誠でありたい」
「すべてナショナルイデオロギーは神話の二つのタイプを使う。ひとつは高貴なる先祖と、もうひとつは偉大な使命である」。
 この叫びに自己無価値感がある。
 実存的欲求不満だから偉大な使命に魅力を感じる。
 日々自己実現している人は、実存的欲求不満な人より、それに惹かれない。

 ナチのイデオロギーはゲマインシャフトであり、それは「一民族、一国家、一総統」というスローガンによって表現され、その意味の中心は、一つの大きな強力な幸福な家族としての民族という意味をもっている。国家が強力な統一的な打ち勝ち難い内的集団であるためにはナチのいうように、一つの血統でなければならない。もちろん何も本当に生物学的にそのようになっていることが必要なのではなく、単に各人がそう信じることが必要なのである。

 心の危機を一気に解決してくれるのが、宗教的狂信等々である。
 が広範で深刻であればあるほど宗教的狂信もまた堅い。
 訂正不可能なのは、狂信していることで、心理的に未解決の問題から目を背けていられる。
 訂正したら、心理的に未解決な問題に直面しなければならない。
 だから訂正不能な確信なのである。
 戦争反対なのに戦争になるのは、現実から目を背けているからである。
 それほど現実に直面することを人は怖れる。

 コンストラクトが多い指導者の時には戦争が起きていない。
 情緒的成熟の大切さである。
 もし本当に戦争反対なら自らの情緒的成熟を願い、自己実現に勤めることである。
 コンストラクトが少ないということはマインドレスネスと言うことでもある。学問をしていれば、何かをしようとするときに、違った視点から見れば、反対に見えることがあるに違いないと自ずと理解している。

 安易に戦争反対を唱える人は、人間が生きるということを極めて安易に考えて居る。
 情緒的成熟は不安と孤独に耐えて、現実を直視する人だけに与えられるものである。
 自らの心の葛藤から目を背ける人の平和主義ほど卑怯な主張はいない。
 本当の平和運動とは、心理的課題の解決である。

 人類の最大の間違いは何か?
 それは生きるということを安易に考えたことである。
 十七世紀に合理性の時代が始まった。それで人は幸せになれると思った。
 1919年パリで平和会議が始まった。これで人類は平和に暮らせると思った。しかしたちまち第二次世界戦争になった。
 時は過ぎて東西冷戦が終わった。しかし民族の対立が始まった。

 私が1960年台のベトナム反戦運動に荷担しなかったのは、それである。
 セリグマンが言う様に、不満は彼ら自身のもっと身近なところに不愉快さがあると思ったからである。
 そこで新しい運動を起こしたいと、新しい若人の会を結成した。そしてそれは挫折した。

 憎しみから戦争反対を唱える人もいれば、愛から戦争反対を唱える人もいる。

心の学問は人間の悪とも向き合う。自分と向き合う。
 なぜヒトラーは政権を取れたか?
 国会焼き討ち事件など選挙戦術のレベルではなく、支持した人々の心理を分析する。
 そうして人間の弱さにも向き合う。
 その結果、自分の位置が分かる。
 悪と自分に向き合う。
 安易な考え方をしない。

ストレス時代になった。
 生活空間の快適化と空洞化、大地の香りがなくなる。主として家族の心の絆の崩壊、現実世界の衰退。ネット依存、仮想空間と現実の」乖離。サイバー空間の拡大。
 心の課題はますます解決困難になる。
 現実は栄えて、心が滅びる。

フランクルの言葉をもう一度書く。
「原子爆弾までもわれわれ自身のなかにあるのです。」[註、時代精神の病理学、フランクル著作集3、宮本忠雄訳、みすず書房、昭和36年5月15日、135頁]
 学問をすることで、なぜ核拡散が止められないかを理解する。核兵器の反対に皆が賛成である。それなら核兵器を廃絶すれば良いい。しかし現実には核兵器は廃絶されない、何故なのか?
それの答えが人の無意識である。

100人いれば、100人が戦争反対であろう、それなら戦争をしなければよい。しかし人類の歴史は戦争の歴史である。
 ある人は苦しまないでは居られない。意識で苦しむことで、無意識の領域で満足がある。苦しむことが、その人の無意識の必要性である。

 戦争になるとうつ病や、自殺は激減する。
 アルコール依存症の夫と離婚した人は、2度とアルコール依存症の人と結婚しないという。しかい離婚後に再婚してみると、夫はアルコール依存症というのは半数近い。
 幸せは大股でこない。

依存心と怒り。
オイディプス・コンプレックスの克服、それは人類普遍の課題であるという。依存心と無力が人間の宿命である。
 この課題に立ち向かってはじめて幸せになれる。
 これを逃げるから、フロイドが言う様に「人は常に苦しみたがる」ことになる。
「不安と怒り」にどう対処するか?

隠された怒りが、苦しむことをとおおして表現されてくる。
悲観主義は偽装された攻撃性である。フロイドは「人は常に苦しみたがる」という言葉で、無意識を言おうとした。
惨め依存症の人がいる。惨めを誇示することで同情を得られる。
過食をやめられない人がいる。過食にはメリットがある。learned illness。
肥満であれば、社会的責任を逃れることができる。

ある薬物依存症の青年である、病院での治療を終わって、薬物依存症の原因である母親と別れる決心をする。
そこで父親のところに行く切符を予約して、飛行機に乗ったら母親のところに行く飛行機だった。ニューヨーク行きは母親のところに帰るためである。
意識では幸せになりたい。でも、無意識では母親のところに行きたい。幸せよりも衰退の症候群が強い。

 不安を避ける。結果として「苦しみたい」となる。不安と不満の選択で人は不満を選ぶ。
 成長することは不安に直面することである。
 不安は、依存心と無力という人間の宿命の結果である。
個性化の過程で、人は不安を避け、安全を選ぶ。
 こういう人は自分の依存心の強さ、退行欲求の強さに気がついていない。成長欲求の頼りなさに気がついていない。人は幸せになるために成長への意志を必要とする。

 エレン・ランガー教授は、「子どもは可愛い」と学習するという。
しかし無意識では、負担になってくれば憎らしい。

親の虐待で傷だらけで、私の親は「良い人」、好きです、と言い張る若者にあった。
 しかし無意識では傷つけられて憎しみを持っている。

 幸福のイメージが画一化されている。
 不幸な人が、消費社会の中で「私は幸せです」と言い張る。
「人は常に苦しみたがる」というのは、人は無意識では「自分に嘘をつこうとする」ということである。
 自分に正直が最善の生き方とフロイドはいう。
 精神分析学はフロイドによって体系化された理論体系である。
 人文社会科学の分野で何が人類最大の発見であるかは人によって異なるであろうが、フロイドの無意識の領域の発見であるという人は多いだろう。

 また同時に精神分析は学問ではないと批判する人もいる。ただ精神分析を抜きにして人間や社会の様々な現象を理解しようとすると、どうしても理解しにくいことが多くなる。
 フロムはフロイドの発見のうちで最も実り豊かで影響を与えたものの一つはナルシシズムの概念であると述べているが、そうしたナルシシズムの概念や母親への近親相姦願望の概念などを基礎にしながら、無意識まで含めて人間をトータルに理解していく学問である。
従って深層心理学の一つとも言われる。人の深層まで視野に入れて人を理解する。
 精神療法技法に使われるものであるが、社会現象を理解するときに人の無意識の領域まで含めて理解すればよりよく理解できることは多い。

精神分析はパーソナリティーの構造と機能についての理論であるが、人が視野を広げるための学問でもある。
 フロイドの発見である無意識の領域を視野の外に置いて社会現象を理解しようとすると「なぜだ?」「深まる疑問」と言う形容詞をつけるしかなくなる。そうした新聞記事になることが多い。

学校が模範的と評価する少年がなぜ人を殺すのか?
母親の手伝いをする子がなぜ母親を殺すのか?
真面目なビジネスパーソンがなぜうつ病になってしまうのか?
幼児を虐待する母親になぜ規範意識の強い人が多いのか?
社会的に立派な親の子どもがなぜ反社会的になったり非社会的になったりするのか?
不登校等様々な教育問題を抱える家庭になぜ教育熱心な家庭が多いのか?
幼児を殺した少年がなぜ「お母さんが大好き」と言っているのか?
自殺した少年について新聞が「あの明るい子がなぜ?」と書く様なことがなぜ起きるのか?
人を殺すカルト集団のメンバーはなぜ真面目なのか?世界が怖れるオサマ・ビン・ラディンやテロの9,11の実行犯アドなどのテロリストがなぜ真面目なのか?

テロリストは狂気である。基本的欲求が満たされないと、あそこまで狂気になるということを教えている。

数え上げればきりがない職場や家庭での疑問に対して答えることが出来るのが精神分析学と言う心の学問である。

 真面目なビジネスパーソンが挫折していくときに彼らの「隠れたる真の動機」を見つけることが出来るのが精神分析学である。

そして時代を経るにしたがってユングが離反していき、その内容も変化をしてきた。

(その他の年の「年頭所感」はこちら)