秋葉原無差別殺傷事件に見る成熟格差社会①
人間の年齢には肉体的年齢、社会的年齢と心理的年齢の三つがある。肉体的年齢はもちろん社会的年齢も時と共に進む。
子どもは七歳になれば小学校に入っている。十四歳では中学生で、二十歳になれば選挙権が与えられる。ところが心理的年齢だけは時と共に歳を取るわけではない。
「人間のパーソナリティーは段階を追って成熟する」というのは二十世紀ですでに通説となっている。英語の著作を読んでいると、人がどこかの段階で心理的に成長がとまってしまうことを「逮捕(註;arrest)された」と表現するのを見かけたことがあるが、適切な表現である。
ところで六月に起きた秋葉原殺傷事件の加藤容疑者が「誰かに止めてもらいたかった」と言ったと伝えられる。
少年少女期に、母親が子どもに「止めなさいよ」と言う。それにたいして子どもが「やるよ」と言い合う。
子どもは「やるよ」と言いながらも母親が力ずくで止めてくれることを望んでいる。
要するに加藤容疑者は自分に絡んでくれる人を求めている。
これは別の表現をすれば「かまってもらいたかった」と言うことである。つまり「甘えたかった」と言うことである。
子どもが逃げた時に親なり保母さんなりが追いかけていく。子どもが悪態つくけど追いかけてあげる。子どもは追いかけてもらいたいから逃げる。
子どもは親や保母さんに「かまってもらいたい。」どういうときに子どもは隠れたいか。
子どもは見つけてもらいたいから隠れる。隠れたときに、知らん顔をするのが、愛の欠如。
子どもが怒ってドアを「どん」と閉めたときには2、3時間ほっておく。母親はその間に買い物に行ってはいけない。部屋に入ってもいけない。ドアの所に何かを置いておいてあげる。
すると「お風呂湧いた」と言って出てくる。
子どもが隠れる、逃げるなどの時には甘えているのである。それを追いかけない親だと子どもの甘えの欲求は満たされない。大人になってもその満たされない甘えの欲求は消えていない。
つまり大人になっても甘えている。
そのほかに彼の甘えを表している表現はネット上にも見られる。
6月1日
「はいはい日曜日。M8くらいの地震でも起きればいいのに」と書いている。丁度小学生が、試験がイヤで「学校が燃えてしまえばよいのに」と思っているのと同じである。
あるいは寂しい小学生が「学校燃えればよいのに」と言う。かまってもらえる。
これは自分で今の問題をどうにも解決できなくて、何かに頼って解決しようとしている姿勢である。自分の力ではなく、何かが自分の問題を解決してくれることを願っている姿勢である。「M8くらいの地震」と言う表現は彼の受け身の姿勢を表している。
6月4日
「勝ち組はみんな死んでしまえ」と書いている。
本当の勝ち組、負け組は、生きるエネルギーが無くなったときにどう生きられるかで決まる。本当の勝ち組、負け組が決まるのは今ではない。名誉や権力が無くなる高齢になってからである。
彼は世俗を憎みながらも世俗の価値観から抜け出すことが出来ない。
幼児が気に入らないことがあると「みんな死んじゃえ、死んじゃえ」と言う。これと同じである。
この加藤容疑者は二五歳になって幼児期の甘えの願望が満たされていないので甘えたのである。幼児的願望が満たされないままに肉体的年齢と社会的年齢だけが二五歳の大人となった。そこでそれにふさわしい社会性を身につけることはなかなか出来ない。
身につけたとしてもそれはマズローの言う疑似成長である。
高校を卒業し、働きだし社会的年齢がどんどん進む中で彼の心理的年齢はとまったままである。
心理的年齢が社会的年齢においつかないと言うことはニートと言われる人たちに1回も職業体験がないわけではなく、約8割の人がアルバイトを含めて働いた経験があることにも現れている。
働くという社会的年齢に達し、肉体的には働く能力があるので働いてはみたものの、働く心理的能力がなかったということである。
同じことは不登校についても言える。
この秋葉原殺傷事件は三つの年齢のギャップを象徴的に示した不幸な事件である。
かつてこの三つの年齢には大きなギャップはなかった。それは人が成長する生活空間が意味内実を持っていたからである。家族も地域社会も人のつながりがあった。
しかし近代化の中で生活空間は意味内実を失い、それはグローバリズムと言う旗の中でどんどん加速された。
生活空間が意味内実を失ったとはどういうことだろうか。例えばお葬式にお花を出す。しかし悲しみの心がない。形式だけは整っているが、なくなった人への悲しみがない。結果が大切で、過程は重くない。
料理は誰が作っても同じ。コンビニのオニギリも母親のオニギリも同じ。
自立する心理的準備が出来ていない若者に自立を促すことは逆効果をもたらしかねないにもかかわらず、現在ではニート対策をはじめ社会的年齢にふさわしい自立を求めている事が多い。
自立する心理的準備とは自立する前の時期までの欲求が満たされ、それまでの心理的課題が解決されていると言うことである。
マズローが主張するように前に進むためには後退を認めなければならない。心理的に幼児である加藤容疑者が心理的に少年になるためには幼児に後退し、幼児期の課題を解決することが必要であった。
しかし現実の肉体的年齢と社会的年齢は後退出来ない故に、心理的年齢とのギャップはいよいよ大きくなる。つまり生きることはいよいよ辛くなる。
心は肉体的年齢と社会的年齢の変化に適応できず、情緒的成熟に失敗し秋葉原殺傷事件の様な現象が起きてくる。
幼児が手で食べても可愛いが、5才になったら可愛くない。肉体的な成熟ギャップは見えるが、心理的ギャップは日常生活では眼に見えない。
甘えは子供の頃には可愛いけれども、大人になってしまえば嫌われる。