2004 自然は心を教えてくれる。

自然は心を教えてくれる。 [2004/12/27]

雨には色々な雨がある。春雨、梅雨、秋の長雨。

そうした雨はその季節の感情を洗い流してくれるのだろう。そした雨があるから次の季節に移行できる。夏の感情を一掃するための秋の大雨。

人生も、どこかの時点でそれまでのことを洗い流さなければ、その先には行けない。

自然は雨で季節を流す。流すことは芽を出すことでもある。そして先に進む。悔しいときには悔しい感情を流す。そして「オレは休眠に入るんだ」と思えばいい。

それには冬が一番良い。秋の雨で秋のことを流して、冬に入りエネルギーを蓄える。

人生は色々なことがある。何かあった時には、「あなたは、これからそう言う年代に入ったよ」と言う意味である。「これからこのようなことは次々起きてくるんだよ」という前兆である。

秋の終わりは来年の春に向かったエネルギーを蓄える時期である。

秋に木の葉が散ってくれなければ、来年春のエネルギーはない。

何もないことが季節ではないし、人生でもない。人生にも、秋雨は降るし、梅雨も来る。

カルフォルニアがどんなに素晴らしいといっても季節のない地方はつまらない。

夏は暑くなくて、虫が来なくて、冬は寒くなくて、美味しい果物や食べ物があって等々と調子の良いことばかりではない。人生も自然も、それは同じこと。

そんなことではその季節その季節の食べ物が出来るわけがない。こっちが暑いから、次の季節の食べ物が出来る。

夏が暑いからこそ、冬に蓄えて、秋には栄養豊かな柿が出来る。

秋の寂しさ、秋の暖かさ。 [2004/11/15]

夏は一人で生きられる。秋は一人で生きられない。でも物悲しい秋だから人は語り合える。

だから秋は日溜まりが良い。秋は、会話をしながら、触れ合いながら生きていく。
夏には、一つのものを皆で食べる様な食べ物がない。例えば鍋をつつきあう食べ物がない。

フォンデュも冬。

秋は料理の中にももの悲しさがある。

夏には花が満艦飾になる。虫も賑やかに鳴いている。

でも秋のコオロギの声は寂しい。

親しい人と喧嘩をした後の淋しさは秋の寂しさ。

秋風の時は、あの「叱られて、叱られて、」と言う童謡の寂しさである。

お互いの気持ちをふれあうことが、秋の暖かさ。

初夏の匂い [2004/05/19]

早稲田大学理工学部は明治通りに面している。そして明治通りから並木道を通って百メートルくらい歩くと、大学 の正門になる。私はこの道が大好きである。 なんでここが好きか。

この並木道には並木道の四季があるから。そしてこの並木道が人生を教えてくれるから。

冬の並木道は枝が枯れて陽が射し込んで明るかった。冬は枯れ木になるが、その枯れ木の中に日が射し込むときに 何故か心が救われる。

春は若葉。緑のトンネルになる。

そして若葉が終わって、初夏が来る。若葉の季節がなくていきなり初夏の並木道になられては心がついていけない 。

並木道は初夏には木の葉で鬱蒼となる。その鬱蒼とした中を歩くことでホットする。そこには初夏の匂いがある。

そこでホットするときに、人間の心がバランスを取るためには陰影が大切なのだなとつくづく感じる。陰と陽があ って心のバランスがとれる。

陽が当たるのと陰があるのとで心のバランスがとれる。陰で心がホットする。

鬱蒼と茂っているから、うっとうしいはずなのに、初夏にその並木道を歩くと何故か心が安らぐ。鬱蒼と茂ってい るが、ホットする。おそらく初夏だから鬱蒼と茂った並木道がホットするのだろう。

明るいだけだと、子供でも心は落ち着かない。明るいだけだと開放的でも人の心は落ち着かない。

人間も悲しいときには悲しみを十分味わえば、必ず陽が当たる時期が来るに違いない。十分に悲しみを味わう前に 早く陽が当たることを願うとかえって悲しさを後に引きずってしまう。

私達は悲しいならばそれにしたる方がかえって救われる。

陰と陽があって、並木道が素晴らしい並木道になる様に、私達の人生も陰と陽があって、素晴らしい人生になるに 違いない。

冬のベンチ [2004/02/23]

私は「冬のベンチ」が好です。

冬のベンチが陽を一杯に浴びて、光っている。

それを見ていると、ベンチは何となく生きている感じがしてきます。あそこに何人かが座って、いろんなことを話し合ってと、ベンチに物語を感じてきます。
そんな日溜まりのベンチは、アンティークの感じがしてきます。ぬくもりを感じます。

冬でもそこには冷たさとか寂しさを感じない。

本当の幸せを感じるのは冬のベンチに座っている時。

本当の暖かさを感じるのは冬のベンチ。

春になると人はまわりの景色を見てしまうからベンチに注意が行かない。

一年中役に立った物が、冬にひときわ輝いている。

人の心も愛情も、過酷などん底に落ちたときに気がつくものです。普段何気なかった人の、あるいは気がつかなかった人の愛に気がつく。それは辛いとき。

夏は「熱い、熱い」で誰もベンチに注意がいかない。

夏は緑に気を奪われているから、ベンチに気がつかない。

冬にベンチに気がつくと「こんなところにベンチがあったのか」と人は思う。

春になるとチョウチョの方に気を取られてしまう。

ベンチに腰を下ろしてチョウチョを楽しんでいるのだけれども、ベンチに注意が行かない。

ベンチに体を休ませて居て、チョウチョを楽しむのだけれども、人は座っているベンチの存在にすら気がつかない。

そんな時に「オレはベンチだ、オレが居るからおまえはチョウチョが楽しめるのだ」と不満から騒いでも人は認めてくれない。

しかし冬が来れば黙っていても人が認めてくれる。

「朝日の当たる家」と言う歌が昔あった気がする。「朝日の当たる家」はきっと冬の話しである。

人は、時期を待つと言うことを忘れてはいけない。