2005 秋は休息、春は達成感。

秋は休息、春は達成感。 [2005/11/14]

冬にためたエネルギーが春には働く。春は自分も楽しく、他人にも楽しさを与える。

春は自然が「楽しいね」と言う。こちらも楽しくなる。

秋、木の葉が素直に落ちる。「夕焼け小焼けで日が暮れて」が秋。秋は自然が「休もうね」と言うから、こちらも「休もうかなー」と思う。

秋は休息して、自分にやさしくなれるから人にもやさしくなれる。

秋の斜めの長い陽射しには常緑樹は似合わない。秋に常緑樹を見ていると何か疲れる。秋の陽射しにあわない。秋の陽射しには舞っている葉が似合っている。

秋の陽射しは弱いから、常緑樹の緑が綺麗ではない。

その環境に受け入れられる色がある。

夏には涼しさを感じさせる緑が、秋には涼しさを感じさせない。

秋には秋の雲がある。秋の空には鰯雲がある。真夏の真っ青な空には緑は良い。

夏の空には入道雲。

常緑樹は秋には何となく堅苦しくなる。

「冬でも、私は緑ですよ」と無理をして様に見える。そして冬になると緑が緑になっていない。無理をしている。

それは「立派な親」を演じて疲れている親みたいである。

「隙を見せてはいけない」と構えている人がいる。それが無理。

秋に常緑樹が「私は元気です」と張っていても、見ていて疲れる。

木の葉は落ちるときに落ちてほしい。花も咲くときに咲いてほしい。

女が50歳を過ぎているのに、それを受け入れないで若さを売っている。それは秋にはさえない常緑樹に似ている。

女も男も歳をとったらとったでいい。

温情停車は間違い [2005/03/03]

大学入試で試験に向かう受験生が列車を乗り間違えた。そこで本来は停車しない駅に東北新幹線が停まった。この温情停車について読売新聞から取材を受け、2/12(土)の夕刊に私の意見が載り、そのことについて色々な方からご意見を伺った。新聞は紙面の都合でこちらの言う趣旨を全て載せられるわけではない。私が今回の温情停車について言いたかった趣旨の要約をこのホームページで述べさせてもらいたい。

正しい事が状況と関係なくあるわけではない。

状況によってその事が正しかったり正しくなかったりする。

例えば、明るいことが良いことだからと言ってお葬式で笑うのは望ましいことではない。例えば、麻薬が悪いと言ったって手術の時には麻薬を使う。そう考えると、今の日本の状況の中で、今回のように新幹線が停まるということが望ましいことかどうかということである。

受験のもたらすマイナス面が色々と指摘されている。学歴社会のマイナス面も色々と指摘されている。例えばその中で、私が考えなければならないのは、高学歴でないために不利益を被っていると思っている若者達のことについてである。今の日本にはこのようなことから、社会の枠組みを踏み外してしまう若者もいる。「どうせ世の中は俺達のことなんか、大切には思っていない」と思い、人生を間違える若者もいる。またそうした若者を「そうではない、人生で大切なのは学歴ではない、大切なのは人間性だ、一生懸命頑張っていれば必ずいつか良いことがある、一生懸命頑張っていれば必ずいつか君を認めてくれる人がいる」と励ましている大人もいる。

全国の補導センターでは、補導された若者達の指導に努力している人達が沢山いる。今回の新幹線温情停車の件は、そうした若者達や若者達の指導に努力している人々に打撃を与える出来事である。彼らが、「受験生のためには、新幹線でさえ規則を侵して停まる。しかし俺達には、たとえ親が危篤でも停まらないかも知れない」と思ってしまっても、おかしくはない。

たかが受験なのである。そのたかが受験に新幹線さえ停まるという世の中に、彼らが背を向けたとしたら、どうして彼らを責められるのか?今回の温情停車の件は、全国で若者達の指導に毎日地味な努力を続けている人々をあざけるような処置である。そうした大人の努力を水の泡にするような出来事なのである。

私自身、今まで接して来たこのような若者達のなかで、「あいつは今回の事件をどう感じただろうか?」と思うと、心配でならない。心理的打撃があってもおかしくはない。新幹線を走らせているのは日本を代表する大企業である。もうすこし今の日本のあり方に社会的責任を感じても良いのではないか?

極めて安易な善意である。

たかが受験にこれだけの対応をしながら、他方で今の若者のあり方を嘆いている。今の若者達をここまで無気力にした責任の一端は社会にあるのではないだろうか?