心の教育とはどういうことか?(2)

小さな子供はまたよく「謝っているじゃないか」と怒る。相手とコミュニケーションの出来ていない子供である。自分中心なのである。謝るということに至るまでの時間の経過がない。
 
おそらくこの子の親は何か子供が悪戯すると「謝りなさい」と言っているのである。こういう母親は上下関係を作りたいのである。こういう母親は威張っているけれども周囲が気になるタイプである。つまり心が触れ合う関係がつくれない。
 
こういう母親は上下関係を作りたいが、同時に、平等が心の触れ合いと思っている。父親も子供もない。けじめがない。要するに、心のふれあいと言いながらも、周囲の人に無関心なだけなのである。

謝るとはどういうことであろうか。相手の大切なものを壊してしまったとする。「あー、申し分けない」と思う。「どうしたらいいだろう、新しいものを買おうか、」と考える。どのような方法で償えるかを考える。そこで「とにかく詫びておこう」ということで「ご免なさい」とか「申し分けない」と謝る。
 
自分のしてしまったことに対して相手のことを考えるから詫びるのと、謝ればいいでしょうということで詫びるのとでは違う。謝ることを教えるのが心の教育ではなく、謝るに至る心の過程を教えるのが心の教育である。その心の過程に相手の現実が出てくる。

そして謝るとは相手の傷ついた感情を宥めると言うことである。「ご免なさい」と謝られたことで、傷ついた心が癒される。この時に「謝った」ということだと教えるのが心の教育である。つまり人間には心がある、人間は「もの」ではないと理解するからである。
 
「ご免なさい」と謝っても、相手の傷ついた感情が宥められないなら謝ったことにはならない。これを理解させるのが心の教育である。謝る「べき」だから謝ったというのでは、おそらく相手の傷ついた心は癒されないだろう。謝る「べき」という規範意識から謝ったというのでは、謝る側にも「こころ」がない。
 
人の心を傷つけたら一日二日おいてから謝った方がいいかなと考えることが自然である。そうした謝り方を教えるのが心の教育である。なぜそうした方がいいのかという理由を説明するのが心の教育である。
 
もともと子供は素直な心を持っている。その心で社会に接することを教えるのである。素直な心があれば、人を傷つけたときに、心から謝る。素直さを教えないで、「謝りなさい」は心とは関係ない。