神経症者の要求の特徴4

今回はカレン・ホルナイの言う神経症的要求の特徴の四回目で、最後である。その特徴は復讐性である。神経症者の要求には復讐性があると彼女はいう。

側から見ると恵まれた人生を送っている人が居る。しかし本人は辛い人生だと悩んでいたりする。なぜ辛がっているのか?その一つのケースはその人が自分の理想像へ執着しすぎるからである。神経症者は現実の自分の実力、能力、適性を無視して、何としても「理想の自分」になろうとするからである。だから疲れていても仕事を休むことが出来ないのである。彼らは走って走って走り続ける。恐ろしいものに追いかけられて走っている。彼らも誰かが自分を助けてくれると思えば、止まるだろう。しかし誰も助けてくれないと思うから止まれない。

自分がしたいことをして、結果として「恵まれた人生」になった人と、皆が「わー、凄い」と言うことをして、恵まれた人生になった人では、同じように社会的経済的には恵まれていても幸福感は全く違う。皆が「わー、凄い」と言うことをして成功した人は、端から見て恵まれていても、生きるのが辛い。「生きるのが辛い」とは心が満足していないと言うことである。「端から見て恵まれていても、生きるのが辛い人」は人に見せるための人生を送っている人である。
 
辛がっている人の問題は「自分の理想像への執着」なのである。ただ「自分の理想像への執着」と言うと何かかっこいいようだけっども、それは単に虚栄心が強いと言うだけのことである。
 
「理想の自分」とは要するに、皆から「わー、すごい」と賞賛されるような人間である。もちろん心理的に健康な人も皆から「わー、すごい」と賞賛されたい。しかしそれはあくまで自分が好きなこと、自分の適性にかなったことで成功して褒められたいということで、神経症者の様に自分の適性と関係なく、褒められたいとは思わない。
 
神経症型の人は現実の自分の実力、能力を無視して、何としても理想の自分になろうとする。だから疲れていても仕事を休むことが出来ないのである。彼らは走って走って走り続ける。恐ろしいものに追いかけられて走っている。彼らも誰かが自分を助けてくれると思えば、止まるだろう。しかし誰も助けてくれないと思うから止まれない。
 
だから神経症者は何としても出世をしたい。それは何であってもいい。皆から尊敬されるものであれば、自分がそれを好きか嫌いかは問題ではない。というよりも神経症者は自分が何を好きか嫌いかが分からなくなっている。
 
そして神経症的になればなるほど自分の出来ないことをしようと焦る。それはいよいよ自分の願望ではなく、他人の羨望を求めて行動するからである。八ヶ岳に登よりも、キリマンジェロに登ったほうがみなから「わー、すごい」と言われる。そう言われて、幼児期からの憎しみや、苦しみを一気に吹き飛ばしたい。

神経症になればなるほど自分の出来ないことをしようと焦るのは、神経症的になればなるほど、虚しいから、それを名誉やお金で埋めようとしているからである。虚しさが深刻なら深刻なほど、その大きな穴を埋めるのに大きな名誉と大金が必要になる。
 
従って神経症者は失敗を受け入れることが出来ない。受け入れることが出来ないとは、失敗すると失敗を嘆いてばかり居ると言うことである。心理的に健康な人は自分のしたいことをして失敗するから、失敗してもしたことに対する満足はある。失敗に対する態度でその人の神経症の程度は分かる。神経症者は自分を大切にした生き方をしていないから、失敗したら後悔だけの人生である。

そして成功しても幸せになれない人である。なぜなら何事も自分の意志でしているのでないから。成功しても達成感、満足感がない。
 
心理的に健康な子供が木に登ろうとする。自分が登りたいから登ろうとしている。失敗する。すると「なぜだろう?」と思う。もう一度挑戦する。自分が納得するまで登る。神経症の子供が木に登る。自分が登りたいわけではない。しなければいけないからするだけである。登れなかった。すると登れなかったかった自分に対する絶望と後悔が残る。
 
理想像への執着は人生の白アリみたいなものである。白アリは長い間に家を壊す。

神経症者は不安である。その自分の不安から名誉やお金によって逃れようとする。お金や名誉を誇示することで自信のなさから逃れようとする。だから名誉やお金に強迫的になるのである。名誉やお金がなくては居ても立っても居られない。それが名誉やお金に「強迫的」と言うことである。

彼らは誰も人を信じていないから名誉やお金が必要なのである。自分を守るものとしてお金や名誉しか信じられないのである。
 
お金も名誉もなくてもあの人は私を愛してくれると信じられれば、人はお金や名誉に強迫的にならない。お金も名誉もなくてもあの人は私を見捨てないと信じられれば、人はお金や名誉に強迫的にならない。神経症型の人は人を信じていないから、お金や名誉がなければ人と堂々と会えない。

心理的に病んでいる人にとって実際の自分は軽蔑の対象でしかない。責める対象としての自分なのである。もう一方に愛される自分、人々から尊敬される自分がいる。それが理想の自分である。この理想の自分と実際の自分の緊張関係から強迫性が生まれる。
 
不安と強迫性との関係を頭においておくことは大切である。つまりそれを頭においておけば、自分が何かに強迫的になった時、自分の中にどのような不安の原因があるのかと反省することが出来るからである。自分には自分が気がついていない何があるのだと反省してみることが出来る。何で自分はこんなにまで名声を追及するのかと言う反省である。
 
心の底で知っている実際の自分と、理想の自分とがどれくらいかけ離れているかを反省する機会となるからである。
 
それでないと、富や名誉に強迫的になりながら、いつまでも富や名誉を強迫的に追い求め、ついに現実の自分の人生に満足することが出来ないままで人生を終わることになる。
 
強迫的になっている人の間違いは、「自分はこんなに頑張っているのに幸せになれない、だからもっと頑張らなければ」と思ってしまうことである。前後のかかわり合いを見ていない。状況を見ていない。自分のしていることが理解できていない。
 
例えば自分は花束を女性にプレゼントしているつもりでいるが、実は骸骨をプレゼントしているということがある。だから女性がこちらを向かないで逃げていく。すると「何でなんだ、俺がこんなに努力しているのに」と叫び、苦しみ、悩む。
 
なぜ思惑がはずれたかを反省していない。相手を見ていないから努力が生きてこない。相手が何を望んでいるかを考えない。自分の世界観だけで努力する。だから「こうなる」と思ってしたことが、「こうならない」。
 
なぜなのだろうと考えないで、「もっと」同じことをする。さらに努力をする。もっと大きな骸骨をもっとプレゼントする。
 
例えば気に入られたいと思って自分の本当の感情を表現しないとする。本当は「会いたい」のに、「会いたい」と言うと相手に軽く思われるかと思って「会いたい」と言わない。「会ってやる」と言う態度を示す。
 
逆に迎合する態度が相手を遠ざけてしまっているのに、さらに迎合する人もいる。
 
もしかすると相手は本当の感情を表現できるような親しい間柄を望んでいたのである。相手はそうしたよそよそしい態度に淋しさを感じる

神経症者は相手を見ていない。相手を理解していない。ではなぜ人を好きになるのか?なぜ人を嫌いになるのか?それは相手が自分の何かを誉めてくれた、自分のコンプレックスを癒す一言を言ってくれたからである。その一言で好きになる。逆に自分のコンプレックスの部分を逆撫でする一言を言い、傷つけたから嫌いになる。神経症型の人は相手がなんでそれを言ったかも考えない。
 
ある宴会で自分は上席だと思って出席した。しかし期待したよりも下座だった。それで「もっと」頑張る。なんで自分は下座かという事を考えない。
 
期待したよりも下座なのは自分がお金がないからではなく、食べ方に品がないからかも知れない。お金よりも心のゆとりが必要なのに、もっとお金を稼ごうとしてしまう。
 
強迫的になってしまう人は誰からも教えてもらっていないのだろう。手を強迫的に何度も洗う。小さい頃「もうそれくらいでいいのよ」と優しく教えてくれる母親がいない。手を洗った後で小さい頃「わー、キレイ」と言ってくれる人がいなかった。

自分の理想像に執着するとは、自分への期待を下げられないということである。「期待を下げる」と言うよりも「自分への期待を適切なものに変更出来ない」ということである。心理的に病んでいる人の問題は「期待を変える」ことを「期待を下げる」と解釈してしまうことである。
 
心理的に病んでいる人は自分の考える理想の自分にならなければ愛されないと錯覚する。自分には丸の面も三角の面も四角の面も×の面もある。その中の三角が良くて好かれると言うことが理解できない。丸も三角も四角も×もすべてが良くないと自分は好かれないと錯覚する。だから理想像に執着するのである。
 
登る山はいくつもある。しかし心理的に病んでいる人は「この山」に登らなければいけないと思い込む。「自分はこの山に登る体力がない」のだから、自分の体力にあった山に登ればいいのだが、神経症型の人はそうは思えない。世の中には「あの山」もあれば、「その山」もある。どの山に登っても立派だと思えれば、自分に合う山を探して登れる。だから「この山」に執着はしない。
 
神経症型の人が「この山」に執着するのは親の価値観なのだろう。小さい頃の親を始めとする周囲の人の期待の内面化である。実は楽しく登ればどの山でもいいのである。
 
心理的に病んでいる人は成功した自分、皆に賞賛される自分、フットライトを浴びる自分、そんな自分でなければ気がすまない。そうであればそうであるほど失敗の与える心理的打撃は大きい。失敗すると幸せへの道を絶たれると思ってしまう。
 
「べつにこれ以上偉くならなくてもいい」と思えないということが、理想像への強迫的執着である。実際の自分がその様に能力が無いのだから、自分がなれるもので満足するというのが心理的健康である。

心理的に健康な人は自分がなれるものに満足する。心理的に健康な人は自分に与えられた能力を使う。
 
心理的に病んでいる人には、「こう」ならなければ満足できないというものがある。しかし実際の自分はその様になる能力が無い。あるいは本質的に自分の適性に、それは向いていない。それにもかかわらず、神経症者はその様な地位に向けて強迫的な努力をすることになる。
 
おそらく大人になっても小さい頃の挫折を受け入れられないでいるのであろう。
 
なんとかして自分を嘲笑したものを見返してやりたい、なんとかして親の失望を取り返したい、そんなものが無意識の領域にあるに違いない。何が原因かは人によって異なるであろう。或る人は初恋の人から受けた心の傷かも知れない。初恋の人が自分より優秀な人に心を移したことによる心の傷かも知れない。ある女性は恋人が、自分より美人の人に恋をして自分が失恋したからかも知れない。
 
また別の人は親が自分の成績を見て深い失望のため息をついたことによって受けた心の傷かも知れない。自分の臆病に対して仲間があざ笑った時の心の傷がいつまでも無意識の中に残っているのかも知れない。
 
神経症者には、見返してやりたいと言う復讐的な気持ちが最初にあるから、現実の自分には不可能としか考えられない様な大成功を求める。見返すために必要な成功、それが自分に対する非現実的な期待である。もともと無理なことを望んでいるのだから出来るわけがない。そしてそれができないから悩んでいる。現実の自分を無視してしまうのはまず見返してやりたいと言う復讐的な気持ちが無意識の領域で先行するからである。

例え望むだけの成功をして見返したと思っても、その時点での屈辱感を癒すものでしかない。その成功は長い人生の収穫になるものではない。自分のコンプレックスを処理しておかなければ、またすぐに惨めになる。
 
自分の理想像に執着しているという事は、例えば川を渡るのに、ある渡る場所に執着しているようなものである。川の向こう岸に行きたい。そんなときに川幅の狭いところを選んで渡ればわたれるのに、ある川幅の広い箇所を渡ろうと執着しているような人である。そういう人をはたから見ているとどう見えるか。愚かとしか見えない。しかし本人は狭い川幅の所を渡る人を蔑んでいたりする。
 
心理的に病んでいる人はこの川幅の広いところを渡らなければ幸せになれないと思いこんでいる人である。苦労すれば幸せになれると錯覚している。
 
例えばノイローゼになるエリート官僚などにそうした狭い川幅を渡ることを奨めると「そうした負け犬の生き方はイヤだ」と言うことがある。しかし彼はそうした生き方を負け犬の生き方と軽蔑しなければ生きていけないほど深刻な劣等感を持っているという事なのである。それだけ苦しいと言うことなのである。
 
人を軽蔑しなければ生きていけない人は多い。カレンホルナイは神経症的名声追及の過程には復讐的勝利への衝動が隠されていると指摘している。強迫的に名声を求める人は心の底に屈辱感を抑圧している。
 
不安と強迫性とを関係して考えられるなら、自分が富や名誉に対して強迫的になった時、自分には自分が気がついていない何があるのだと反省してみることが出来る。何で自分はこんなにまで名声を追及するのかと言う反省である。今自分は死の路を歩いていると自覚できる。
 
軽い心の傷は大抵の人が認める。しかし深刻な心の傷はどうしても認められないことが多い。心の傷が深刻であれば深刻であるほど人はその傷を認めることを拒否する。その失意の体験は抑圧される。失恋に際して初恋の人を憎んだり、軽蔑したりして、自分の心の傷と直面することを避ける。例えば「あんな不美人と別れられてせいせいした、、」等などと言って失恋の悲しみから目を背ける。親に心理的に依存している人は、親から受けた嘲笑を無意識の領域へと追いやる。
 
いずれにしても小さい頃、或いは若い頃の挫折を人は受け入れることを避けようとする。その様に逃避することで実際の自分を受け入れることが出来なくなる。その逃避が最終的にその人の心身の消耗へとつながっていく。実際の自分がなれるもので満足するという心理的な健康さを失ってしまう。

自己実現について研究したマズローは、自己実現をしている人について二つの特徴を述べている。一つは「親しい人がいること」。もう一つは「にもかかわらず」と言う考え方をすることである。「自分は画家になりたかったけれども才能がなかった」「にもかかわらず」自分には価値があるということである。
 
よく人は不満だから努力する、だから満足はよくないというようなことを言う人がいる。しかしそうした努力の動機は「見返してやりたい」である。復讐を動機とした努力は孤独への道である。自分に満足している人の方が自己実現的な努力をする。自分の適性にあった努力をする。
 
満足となげやりとは違う。満足と無気力とは違う。満足している人はより自分の適性を伸ばそうと努力をする。神経症の人は自分でない自分になろうと努力する。
 
自分は自分であるということのどうしようもない事実を喜んで受け入れることが出来るか出来ないかに、神経症と心理的に健康な人との分かれ目がある。「見返してやりたい」と努力する人は神経症。自分の価値を信じて努力する人は心理的に健康な人。

強迫的に名声を追求する人は、皮膚がカサカサで、ボロボロの下着を着て、背広がぐちゃぐちゃで、その上にカシミアのコートを着ようとしているようなものである。そのコートで下の汚れを一挙に隠そうとしているのである。何とかして酷いボロをカシミアのコートで隠そうとしている。上のコートが凄いことで皆から賞賛を得ようとしている。
 
しかしどんなにカシミアのコートを着ても、ノミはいるし、体はかゆい。そして体が汚れいているから臭気が漂う。そこで皆は期待したほどよってきてくれない。そこで皮膚のカサカサや下着の汚れはそのままにして、今度はカシミアよりもさらに高価なミンクのコートを着ようとする。それが強迫的名声追求の心理である。
 
その人が本当に幸せになるためにするべきことは先ず風呂に入って、下着を洗ってということなのである。幸せになるための努力はミンクのコートを着ようとすることではない。その人はミンクのコートさえきればすべては解決できると思っている。
 
ある人にとってはミンクのコートは子供である。子供の成功がミンクのコートである。別の人にとってはテレビに出演することがミンクのコートである。
 
コートがなくても相手に対する思いやりがあれば相手から受け入れられると言うことが強迫的名声追及者にはどうしても理解できない。

名声は蛆虫の入っている壷に蓋をするようなものである。神経症型の人は名声さえあればすべてが解決できると思っている。しかし解決できない。だから名声を得ても不幸な人がいるのである。
 
名声を追求始めると、自分は自分であるという当り前のことが受け入れられなくなる。自分は中堅の会社の課長である、自分は小さな自営の店を持つ人間ある、自分は大企業のエリートコースをはずれたサラリーマンである、自分は地方紙の編集部の普通の記者である、自分は画家になりたかったけれども才能ががなかってのでなれなかった等々と言うことが受け入れられない。
 
神経症型の人は自分はその様な人間であってはならないと感じる。自分はその様な人間であってはならないと感じるならば、現在の自分ではない人間になるべく強迫的な努力をすることになる。或いは無気力になる。或いはひねくれる。
 
神経症型の人は自分の能力に不満である。そして実際の能力を認めない。自分はもっともっと能力があると信じ、その様なふりをする。人に自分がその様なすごい能力があるという印象を与えようと必死になる。そして人が自分をその様に扱わないと不愉快である。
 
自分に満足するということと努力しないということは別である。自分に満足している人の方が自己実現的な努力をする。よく人は不満だから努力する、だから満足はよくないというようなことを言う人がいる。しかしそうした努力の動機は「見返してやりたい」である。復讐を動機とした努力は孤独への道である。自分に満足している人の方が自己実現的な努力をする。自分の適性にあった努力をする。

自分は自分であるということのどうしようもない事実を喜んで受け入れることが出来るか出来ないかに、神経症型の人と健康な人との分かれ目がある。「見返してやりたい」と努力する人は神経症型の人。自分の価値を信じて努力する人は心理的に健康な人。
 
満足となげやりとは違う。満足と無気力とは違う。満足している人はより自分を伸ばそうと努力をする。神経症型の人は自分でない自分になろうと努力をする。
 
ではなぜ自分でない自分になろうとするのか。なぜ自分は自分であるということを受け入れられないのか。それは「そうならなければ」愛されないと思っているからである。「そうならなければ」周囲の人々に受け入れられないと思っているからである。
 
神経症型の人は人から気に入られるためには実際の自分では無理だと思っている。だから自分ではない自分になろうと努力するのである。
 
神経症型の人の「自分の理想像への執着」とは周囲の人にこう扱ってもらいたいという事への執着である。周囲の人が自分をそう見てもらいたい、そう扱ってもらいたいという願望である。実際の自分では周囲の人は自分をそう扱ってくれないと言うことである。  ある女性である。自分の知り合いがラジオに出ている。すると自分もラジオに出たがる。なぜラジオに出たがるのかを見ていると、彼女はラジオに出る方が周囲の人が自分の望み通りに自分を扱ってくれると思っているからである。
 
つまりこの女性は周囲の人々と心が触れていない。つまり心が触れ合ったときに「自分の理想像への執着」がなくなる。心が触れれば、そうならなくても自分は大切にされると言うことが理解できるからである。
 
自分が大切にされないのは、ラジオに出演していないからではなく、思いやりのない性格だからだと言うことが彼女には理解できない。彼女は夫と子供の誕生祝いを忘れても自分の誕生日は決して忘れない。その性格が周囲の人から嫌われているのである。しかし彼女は自分は友達のようにラジオに出演していないから、その友達のように好かれないのだろうと錯覚している。

心理的健康とは、自分の能力が大きかろうが小さかろうが、自分が自分であることを喜ぶことである。私自身若い頃神経症的なところがあって、自分の能力に満足していなかった。自分が自分の理想の人間ではないと認めることが出来なかった。どうしても実際の自分を受け入れることが出来なかった。能力には色々な種類があるという事が分からなかった。能力がないと言うことは「その能力」がないと言うことに過ぎない。私は若い頃それが理解できなかった。
 
しかし自分が自分であることを受け入れられるようになってみると、何で非現実的なほど高い期待を自分にかしていたのかと納得できないような気持ちになる。自分が自分であることを受け入れられるとは、人と心がふれあえるようになったという事である。実際の自分に触れるという事である。
 
私は神経症の頃心の底の底では自分がそんなに能力が無いと云うことは知っていた。しかしそのことをどうしても認めることが出来なかった。自分は自分であってはならなかった。自分はどうしても実際の自分より偉くなければならなかった、自分はどうしても実際の自分より能力がなければならなかった。
 
しかし自分が実際の自分を受け入れられるようになってみると、どうしてあんな感じ方をしていたのだろうと不思議になる。自分は自分なのだから自分の能力で行けるところまで行くのが当り前であり、それが嬉しいのも当たり前であるように感じ始める。
 
実際の自分を受け入れてくれる人がこの世の中にいるのもまた当り前に感じる。自分が自分を受け入れてみると現実の自分を受け入れてくれる人がこの世の中に沢山居ることが分かる。そしてその人達と楽しく人生を生きられるのも当り前に感じる。それは太陽が東から上り西に沈むのと同じくらい当り前なのである。
 
自分を受け入れられるようになってみると、自分を受け入れないのは太陽が東から昇ることを受け入れないのと同じくらい滑稽に感じる。つまり神経症型の人は実際の自分の能力を受け入れられないというよりこの世の現実を受け入れられないのである。
 
そして実際の自分を受け入れていない人を見ると欲張りであることが見えてくる。彼らはエネルギーとして石炭も、石油も、原子力発電も皆欲しいのである。「そんなに持っていても一度に使えないよ」と言っても、とにかく全部欲しいのである。「何のために欲しいの?」と聞いてもわからない。とにかく欲しいのである。
 
心理的に健康な人は一番欲しいものを知っていて、それ以外は諦めることが出来る人でもある。
 
実際の自分を受け入れていない人は一般的な価値と自分にとっての価値の違いがわからない。女性を見て「この私が」好きな女性というのがいると言うことが理解できない。一般的な美人が好きなのである。美しさが「この自分のところ」に漂ってくると言うことが理解できない。神経症型の人には、他人は美人とは思わないけれども、「この私には」美しさが漂ってくると言うことがない。

ところで私は若い頃なぜ実際の自分を受け入れなかったのであろうか。なぜ非現実的な期待を自分にかけて、それに固執していたのであろうかな。なぜ実際の自分の能力で満足して、その自分の可能性を実現していくことに喜びを感じなかったのであろうか。自己現実に喜びを感じないで、非現実的な高い理想にばかしこだわって悩んでいたのであろうか。
 
それは心の底で父親と対決することを恐れていたからである。私がその様に非現実的なほど高い期待をかなえて初めて私は父親に認めてもらえた。私は父親の賞賛を得るためにはその様に非現実的なほど高い基準で自分を評価しなければならなかった。
 
父親の承認無しに生きて行かれない私にしてみれば、その非現実的な理想に固執せざるを得なかったのである。私が実際の自分を受け入れると言うことは父親と対決することであり、父親の承認無しに生きて行くことであった。私がそれを避けようとする限り私は何時までも自分の想像の中で作り上げた理想的自己像にこだわらなければならなかった。何時までも実際の自分を拒否しなければならなかった。
 
実際の自分を受け入れることと親からの心理的離乳とは同時に起きる。私が親からの心理的離乳を完成できず、何時までも心理的に依存している限り、私は実際の自分を憎み続けなければならなかったのである。
 
ありのままの私は愛されるに値しないと言う感じ方を避けるために私は自分が理想の自分であると自分にいい続けなければならなかった。心の底ではありのままの私は愛されるに値しない、立派な人は成功した私しか愛されるに値しないと感じていたのである。
 
当時の私には立派な人で、ありのままの私を愛してくれる人などこの世にいることはとうてい信じられなかった。そんなことを言う人がいれば、それは私をからかっているのか、気がおかしい人としか思えなかった。それ程までに私の自己無価値感は強かった。
 
私は肉親の愛と言うものを知らないで育った。肉親の愛とはどんなに欠点、弱点があっても[そのお前が素晴らしい]と思ってくれる事である。肉親の愛を知っている人は神経症にはならない。なぜなら愛されるためには今の自分のそのままで何も不足はしていないと感じているからである。強迫的に名誉など求めはいしない。

前の節で「自分は自分であるということのどうしようもない事実を喜んで受け入れることが出来るか出来ないかに、神経症と心理的に健康な人との分かれ目がある」と書いた。心理的に健康な人は「自分は自分である」と思っている。これが理屈ではなしに、感情として理解できた時に、心理的に健康になったということである。脳で言えば、左脳の論理だけではなく、右脳の感情的な部分をも含めて、そう納得した時に心理的に健康になったということであろう。
 
野原に虎がいる。自分はガラスの箱の中にいる。虎はガラスを突き破って来られない。でも虎がガラスの箱に襲いかかった時にビクッとして身を引く。この様な状況を今年の三月のABCニュースの脳の特集で映していた。
 
大脳新皮質の前頭連合野という部分で自分は安全と判断しても、脳の大脳辺縁系の扁桃核が「ビクッと」反応してしまう。いくら「安全だ」と理屈で分かっても、体は逃げる姿勢になる。安全だと理屈で理解しても、感情はやはり怖い。
 
つまり「自分は自分である」ということを大脳新皮質の部分で理解できているばかりではなく、大脳辺縁系でそう感じられる時に、その人は心理的に健康な人ということが出来る。
 
人間の幸福感には右脳と左脳では右脳が、大脳新皮質と大脳辺縁系では大脳辺縁系の果たす役割が大きい。だから人間は理屈では幸せになれないのである。偉そうな理屈を振り回しながら、欲求不満の塊の様な顔をしている人の何と多いことか。
 
心理的に健康な人は自分に出来ることで満足する。いや心理的に健康な人は自分の出来ることを「したい」と望む。神経症者は自分の出来ないことを「したい」と望む。
 
だから同じことが出来ても、神経症者は「このぐらい」しか出来ないと不満になり、心理的に健康な人は「このぐらいしか出来なくても仕方が無い」と満足している。あるいは「こんなにも出来た」と満足する。実は神経症者が思う「このぐらい」というのが物凄いことなのである。「このぐらい」を「このぐらいしか」と思うか、「こんなにも」と思うかはその人の価値基準で決まる。
 
つまり「このこと」を「このぐらいしか」と思う気持ちから、「こんなにも」と思う気持ちになった時が、自分が自分を受け入れた時である。こうして日々を満足して生きている人と、不満で生きている人とが別れる。
 
自分を受け入れてみると、受け入れないでいた時の事が、あらゆる点でひどく思える。つまり若い頃「自分は、この今の自分であってはならない」と自分に強制していたのがどんなことであるか理解できてくる。自分を受け入れていない時はそのことがどんなに酷いことかと言うことを感じてはいなかったが、自分を受け入れてみると、自分は、この今の自分であってはいけないということが実感として分かる。実感として分かってみると、自分に対して、この今の自分であってはならないという要求と言うは無茶苦茶なことだとよく分かる。

若い頃によくこんな酷いことをしていたものだと自分で自分のしていたことに呆れる。神経症者は本当に「自分は自分であるべきでないという」様に、とんでもないことを自分に要求しているのである。
 
自分の能力からして「これぐらい」がいいとこだなと、そのことを受け入れられないのである。実は「これぐらい」が凄いことなのだが、凄いこととは思わない。自分はもっと出来る「べき」だと思う。もっと出来るべきだと言ったとて、実際に出来ないのだからしかたない。
 
神経症とは、その「しかたない」事を自分に要求するのである。そこまで自分を虐めぬかなくてもいいだろうと思うが、そこまで自分を虐め抜くのである。
 
ではなぜ「これぐらい」と感じて、「こんなにも」と感じないのか。それは自分が、この今の自分を軽蔑しているからである。どんなに凄いことをしても、自分が、この今の自分を軽蔑している限り、「これぐらい」しか出来ないと感じ、不満になる。
 
神経症とは本当に恐ろしいことだと思う。自分が、この今の自分に満足できないと云う神経症は確かに生の悲劇である。自分が、この今の自分に満足できないように過剰な期待や、自分以外の人間であるべきだと要求した親と云うのは魂の殺人者である。こういう親から心理的離乳が出来なければ、いくら社会的に成功しても幸せにはなれない。

どんなに無理して何かを成し遂げても神経症者は「これぐらいしか」と感じて、「もっと」しなければと焦る。人間は誰もスーパーマンではない。調子の悪い時もある。意欲のわかない時もある。スランプの時もある。そんな時、もし「自分はスーパーマンであらねばならない」と思っていれば、焦る。

そしてこの憔悴感こそスランプを長引かせるのである。つまり焦りの心理があれば休んでいても休みにはならない。心理的にいつも「こんな事をしてはいられない」と焦るから、休みながらも心はリラックスしない。

人生にはただだらだらと時が過ぎて行くこともある。スランプで何をしても効率があがらないと言う時もある。

そうであるにもかかわらず、神経症者はスーパーマンであらねばと焦るから逆に人並の仕事もできなくなる。そしてだからこそ神経症者は個性がなくなるのである。普通の人には弱点と長所がある。そしてこの弱点と長所が一つに統合されたところに個性が生じる。
 
この個性を喪失した神経症は明日までにこの仕事をしなければ大変なことになると、焦る。しかしその仕事を明日までにしなくてもなんとかなるものなのである。十年後にはその仕事が明日までに出来ていても出来ていなくてもそれほど大きな違いはない。

予定通り仕事が捗らないことは、神経症者が思うほど大変なことになることはまずない。その仕事を失敗すれば周囲の人は自分を見捨てるというように、焦る人は思う。そこで「これをしなければ大変だ」と失敗を恐れるのである。
 
しかし失敗を恐れる人が思うように周囲の人はその人を責めたりはしない。案外失敗しても周囲の状況は変わらない。
 
むしろその人が勝手に変わったと思い込んで反応するから、実際に変わってしまうということはある。周囲の人はその人を迷惑とも思っていないのに勝手に迷惑がられていると思い込んで身を引くということが起きる。
 
そもそも「私はスーパーマンでなければならない」と思い込むこと自体がおかしいのである。自分は自分でしかないし、そして自分であれば周囲の人は、この今の状態を受け入れてくれるのである。「スーパーマンでなければ自分は受け入れられない」と思い込むことからしておかしいのである。
 
神経症者は仕事が捗らなくて焦っていると思うが、仕事のことで焦っているのではない。個性を失ったことで焦っているのである。ここが普通の人の焦りと、神経症者の焦りとの違いである。つまり神経症者は常に焦っている。
 
自分に対する過大な期待が焦慮感を呼び起こす。そして過大な期待にしがみつくのは親から心理的に離乳が出来ていないからである。自分への理想像に執着している人は、自分が大人になっても心理的に自立できずに、親にしがみついているのだと理解することである。自分の理想像に執着している人は立派なつもりかも知れないが、恥ずかしいことをしているのだと理解することである。

理想像への執着は、恥ずかしい心理的幼稚さをさらけ出していることであり、かつ愚かなことである。高校生が得意になってタバコをすったり酒を飲んだりしていれば、まともな大人は皆彼らが幼稚だと思うだろうし、愚かだと思うだろう。
 
「こうならねば」と言う自分の理想像に執着している人は、それと同じ事をしているのである。本人は自分はレベルが高いと得意になっているかもしれないが、周囲のまともな人たちは「いつまでも幼稚だな」と思っている。

そこで神経症的傾向の強い人がどうすれば心理的に健康な人になれるかを考えたい。
 
まず二つのことがある。一つは親からの心理的離乳。もう一つは毎日何でもいいから小さなことを続けること。

何事のおいてもいき方を間違える人は、地に足のついたことをしないで派手なことをしたがる。なぜそうなるかはすでに今までに説明しているので理解してもらえるだろう。人生でつまずいて立ち上がれない人はまず日常の生活をきちんとしていない。生き方を間違える人は今現在を大切に生きていない。人生を間違える人は毎日毎日することをきちんとしていない。
 毎日鉢植えに水を上げるというのでもいい。そうすれば花が咲いて、そこに喜びがある。毎日水を上げないで咲いた花を見るのと違う。どんな小さなことでも毎日きちんとするというのが大切なところである。
 
或いは三度の食事をきちんと作る。だからこそたまに外で食事をするのが楽しい。たまに豪華なフランス料理をつくるよりも毎日毎日三度三度の食事をきちんとするほうがはるかに大変である。神経症的傾向の強い人はたまに豪華なフランス料理をつくることに熱心で、毎日毎日三度三度の食事をきちんとしない。

現実から目をそらしたくなったら何か一つでいいから、きちんと毎日続けてすることである。先に書いたように植木鉢の花に水を上げるのでもいい。あるいは毎日百円を貯金するのでもいい。顔を洗ったときに洗面台をきれいに拭くのでもいい。クラシックを一時間聴くのでもいい。これを毎日続ける。
 
歯を磨くのでもいい。「歯を白くしたい」と思い、歯を磨き始める。ていねいにていねいに磨いて自分の歯を真っ白にする。こんなことでもいい。とにかく自分の身になることを毎日続けなさい。
 
どんなことでも毎日続けることは大変なことである。そのくじけそうになる気持ちを持続させることが、達成感を生んでくる。
 
神経症的傾向を直したいと思えば、まず日常の生活態度をきちんとすることである。日常のことをきちんとする。ベラン・ウルフが著書のなかで人間として成功する人は料理とか、縫ものとか、大工仕事とか、日常のことを知っておくべきであると書いている。

毎日の積み重ねのなかで何かを感じる。例えば一年続ける。するとそこに達成感が生まれる。そして「こんな小さなことでもこんな気持ちがいいのだからもっとして見よう」と言う気持ちになるだろう。
 
現実から目をそらすためにすることはたいてい非現実的に大きすぎることである。たとえ努力しても、たどり着けない。もともとたどり着けないことをしているから結果は失望の深刻化である。大きいことをするよりも毎日のことをきちんとすることである。
 
毎日五分本を読むのでもいい。それを五年続ければ自分が変わってくる。毎日続ければ人は変わる。今していることを何年できるかである。今していることを五年できれば、それは心の財産になる。
 
こうした生活をしているうちに自分にふさわしい人生の目的が見つかってくる。きちんとした日常生活をないで人生の目的を見つけようとするから見つからないのである。

さて次に親からの心理的離乳である。今まで説明したように心理的健康とは、自分の能力が大きかろうが小さかろうが、自分が自分であることを喜ぶことである。私自身若い頃神経症的なところがあって、自分の能力に満足していなかった。どうしても私は実際の自分の能力も適性も受け入れることが出来なかった。
 
私は父親の期待をかなえることが自分の人生の意味になってしまった。そこで自分の欲求を明確にすることができない。年と共に自分の欲求ではなく父親の欲求をかぎ分けるようになった。

しかし自分が自分であることを受け入れられるようになってみると、何で自分は自分でしかないというこんな当り前のことが受け入れられなかったのかと不思議になる。何で非現実的なほど高い期待を自分にかしていたのかと納得できないような気持ちになる。
 
私は神経症の頃、心の底の底では自分がそんなに能力が無いと云うことは知っていた。しかしそのことをどうしても認めることが出来なかった。自分は自分が憧れる理想の人間ではないと認めることが出来なかった。自分は自分であってはならなかった。自分はどうしても実際の自分より偉くなければならなかった、自分はどうしても実際の自分より能力がなければならなかった。
 
しかし自分が実際の自分を受け入れられるようになってみると、どうしてあんな感じ方をしていたのだろうと不思議になる。自分は自分なのだから自分の能力で行けるところまで行くのが当り前であり、それが嬉しいのも当り前であるように感じ始める。
 
実際の自分を受け入れてくれる人がこの世の中にいるのもまた当り前に感じる。自分が自分を受け入れてみると現実の自分を受け入れてくれる人がこの世の中に沢山居ることが分かる。そしてその人達と楽しく人生を生きられるのもまた当り前に感じる。それは太陽が東から上り西に沈むのと同じくらい当り前なのである。
 
実際の自分を受け入れられるようになってみると、実際の自分を受け入れないのは太陽が東から昇ることを受け入れないのと同じくらい滑稽に感じる。つまり神経症の人は実際の自分の能力を受け入れられないというよりこの世の現実を受け入れられないのである。

ところで私は若い頃なぜ実際の自分を受け入れられなかったのであろうか。なぜ非現実的な期待を自分にかけて、それに固執して悩んでいたのであろうか。なぜ実際の自分の能力で満足して、その自分の可能性を実現して行くことに喜びを感じなかったのであろうか。

それは心の底で父親と対決することを恐れていたからである。私がその様に非現実的なほど高い期待をかなえて初めて私は父親に認めてもらえた。私は父親の承認を得るためにはその様に非現実的なほど高い基準で自分を評価しなければならなかった。私の父親は社会的な自分の立場に物凄く不満で、世間を恨み、それを息子の成功で見返してやりたかった。
 
父親の承認なしに生きて行かれない私にしてみれば、その期待を実現することは至上命令であった。私はその非現実的な理想に固執せざるを得なかったのである。私が実際の自分を受け入れると言うことは父親と対決することであり、父親の承認無しに生きて行くことである。私がそれを避けようとする限り私は何時までも自分の想像の中で作り上げた理想的自己像にこだわらなければならなかった。何時までも実際の自分を拒否しなければならなかった。
 
実際の自分を受け入れることと親からの心理的離乳とは同時に起きる。私が親からの心理的離乳を完成できず、何時までも心理的に親に依存している限り、私は実際の自分を憎み続けなければならなかったのである。
 
ありのままの私は愛されるに値しないと言う感じ方を避けるためには私は自分が理想の自分であると自分にいい続けなければならなかった。心の底ではありのままの私は愛されるに値しない、成功した私しか愛されるに値しないと感じていたのである。
 
当時の私にはありのままの私を愛してくれる人などこの世にいることはとうてい信じられなかった。そんなことを言う人がいれば、それは私をからかっているか、気がおかしい人としか思えなかった。それ程までに私の自己無価値感は強かった。
 
私は肉親の愛と言うものを知らないで育った。肉親の愛とはどんなに欠点、弱点があっても[そのお前が素晴らしい]と言ってくれ、実際そう思ってくれる事である。肉親の愛を知っている人は神経症にはならない。なぜなら愛されるためには今の自分のそのままで何も不足はしていないと感じているからである。