神経症的自尊心

「身知らずの口たたき」と言う格言がある。身のほど知らずに大言壮語することである。
 
よく「あの人は自尊心が強い」という。良い意味で言われるときもあるし、悪い意味で言われるときもある。よい意味で言われるときには誇りが高いと言うことであり、いきいきしているということであろう。悪い意味で言われるときの自尊心とは神経症的自尊心のことである。
 
自尊心そのものを悪く言う人はいない。しかしどうも鼻につく人のことを「あの人は自尊心が強い」という。悪い意味で「あの女は自尊心が強い」と言ったら、その女性がいつも「私は軽い女じゃないわよ」と言う姿勢を誇示している等などであろう。
 
「あの女は自尊心が強い」と言うときにはどちらかというと悪い意味で言われることが多い。ことにこちらから「あの女はどういう人ですか?」と聴いていないのにそう言うときには先ず悪い意味である。「あの人はリンゴが好きですか?」と聴いていないのに「あの人はリンゴが好きです」と説明する人は少ない。同じように聴いていないときにわざわざ言うときにはけなしていることが多い。
 
では神経症的自尊心とはどういうものであるか。神経症的自尊心とは巨大な自我イメージを周囲に認めてもらおうとすることであるとアメリカの著名な精神科医のカレン・ホルナイが言っている。簡単に言えば虚勢を張っている心理である。
 
神経症的自尊心の強い人は本当の自信を身につける機会がなかったのである。例えば、親から十分に愛撫されなかった。弱点をも含めて自分の存在を認められなかった。自信がないから神経症的自尊心で自分を維持しているのである。
 
本当の自信は人との心の触れあいと達成感から生まれる。彼らは人と心が触れ合わないで生きてきた。信じるものがなかったから。
 
人は劣等感があると人と心が触れあえない。劣等感とはそれを知らないのに「それ知らない」と言えない心理状態である。
 
知らないことを、それ知らないと言えて相手と心が触れあえる。知らないことを「それなーに?」と聞けない。馬鹿にされるのが怖くて聞けない。それが触れあえない心理状態である。
 
触れあえない、認められなかったどころか彼らは自らの弱点を蔑まれた。小学校にはいるともう受験競争が待っていた。成績がいいと誉められ、成績が悪いと叱られた。だから本当の自分を見つける機会がなかった。「私はこういう人間だ」というものがつかめなかった。
 
そして親の期待を実現できないということで子供は傷ついた。親の子供への期待こそ親の劣等感の部分なのである。自分が学生時代に、成績で劣等感のある親ほど子供が良い成績だと喜ぶ。子供の求める栄光は親の劣等感の部分である。子供が求める「栄光」は親の劣等感の部分である。それを子供は気がつかない。

私は学生時代にエリート官僚になりたかった時期がある。エリート官僚になることで私は自己栄光化を果たしたかった。エリート官僚は私にとって栄光であった。そしてある時気がついた。エリート官僚こそ父親の劣等感の部分であると言うことに。
 
私の父親は高文試験という昔の公務員試験を通らないで文部省の官僚になった。政治家としてのお爺さんの力であった。しかしそれでも正式に高文試験をパスしていないから文部省の中では色々な劣等感があった様だ。そして文部省を辞めてこれまたお爺さんの力である大学の教授になった。コネのきく当時の話だから、その大学の学長とお爺さんが親しかったからである。
 
その劣等感こそが私への期待となった。そしてその期待が、私にそれを栄光と感じさせた。もし私の父親がこうした劣等感を持っていなければ私は高級エリート官僚になることをけっして栄光とは感じなかったろう。

日本の多くの少年少女は、それぞれの親とのそれぞれの関係の中で、それぞれに傷つきながら子供時代を過ごしてくる。だから大人から見るとせっかくの青春を何であの様に愚かに過ごすのだと思う過ごし方をすることも多い。
 
自分の潜在的な可能性を伸ばすために、何でもできるのに、それをしないで煙草をすって見たり、集まって酒を飲んで見たり、自分が好きでもない職業につこうと努力したりする。
 
なかには非行に走る。自分の可能性を追及しないで、人の眼を意識した行動ばかりをする。自分を見ないで人が自分をどう思うかばかりを気にしている。
 
そして自己無価値感に苦しみながら、自分の価値を上げようとして必死で「あいつ等は馬鹿だよ」とか「世の中は、けしからん!」とか叫ぶ。そう叫ぶのは彼らが劣等感に苦しみ、欲求不満だからである。
 
本当の自信がある人は身構えないで話が出来る。脅える良い子にはならない。楽しい生活をする。利口ぶらない、「馬鹿にされないぞ」と肩肘はらない、心の傷を癒そうと、自分の適性を殺すという犠牲を払って栄光を求めたりしない。
 
そして人を意識した行動を続けるために、カレン・ホルナイが言う様に本当の自信をつける機会がさらになくなってしまう。それにも関わらず、心の底では彼等はまさにカレン・ホルナイが言う様に必死で自信を求めて居る。
 
しかし今の行動を続けても決して自信は生まれてこない。そこが彼等の悲劇なのである。先にも書いたとおり触れあえれば自信が出来る。そして自信が出来れば、軽蔑の言葉を浴びせられても傷つかない。

当の自信をつける機会がなかった彼等は人の上に自分を引き上げる衝動だけを発展させてしまう。しかし虚勢によって人の上に自分を引き上げても残念ながら自信は出来ない。「こうなって皆に一泡ふかせたい」という願望ばかりが強くなって、自分の可能性を追及する姿勢はどんどんなくなる。自分の素直な感じ方が次第に出来なくなってくる。服を一つ着るのにも、「どうだ、凄いだろう」と言う、人を意識したことばかりが、彼の心を支配するようになる。現実の自分の感じ方や、考えは重要でなくなる。周囲の評価をねらっていると、いつになっても本当の自信は身につかない。
 
青年が一人前の口を聞きたがるのはこの心理である。「21歳の大学生」や「17歳の高校生」が世の中が分かっているはずがない。それを恥じることなどどこにもない。しかし神経症的になってくると、これが逆になる。自分が「21歳の大学生」や「17歳の高校生」であると言う現実を忘れて、世の中が分かったようなことを言いたがる。つまり神経症的自尊心とは、「21歳の大学生」で社会人としての何の実績もないけど、社会人として優れた実績をあげた人と同じ様な口を聞きたがる心理である。
 
「俺は、こんな苦しいことを我慢して、ここまで頑張って生きて来た」という実際の体験を元にして心の中にでき上がる心理的安定ではなく、実際には何もしていないのに、「俺は偉い」と思おうとする心理である。自信に到達するのに特別のバイパスを通って行こうとしている。だからいつになっても本当の自信が出来ない。
 
そして彼は奥さんや恋人から特別に偉い人として扱ってもらえることを期待する。彼は人から、特別の注目を獲られるものと期待する。自分を特別に扱わないと不公平に扱われたと感じる。そこで怒りだす。彼は「自分はいつも人より特別に扱われるような資格があると思っている」とカレン・ホルナイは言うが、私はそれよりも自分が生きてきた道を彼は心の底で納得して居ないから「すぐに怒る」のだと思う。
 
自分が自分の生き方を納得していないから、周囲の人に偉大な人間として扱ってもらいたいのである。つまり神経症的自尊心の強い人は虚勢を張って威張っているが、心の底では人が羨ましい。
 
何よりも現実の自分と内面の壮大な自我像とが調和しない。そうすると何処か現実がおかしいと思い出す。他人は自分をその様に立派な人として取り扱わない。他人は自分を普通の人として取り扱う。すると酷く侮辱されたように感じる。自分が侮辱されることには敏感だが、自分が他人を侮辱していることには極めて鈍感である。それは他人を侮辱することで心が楽になるから、自分の心を楽にすることばかりに気を取られているから、他人の心の傷には鈍感なのである。
 
自分が他人を扱っているのと同じように、自分が他人から扱われるとものすごく怒り出す。傲慢であればあるほど傷つき安いと言うのはそのことである。
 
他人はその人をその人が思っているほど凄い人だと思っていない。すると他人はその人を凄い人として扱わない。普通の人として扱う、すると、もの凄く傷つく。攻撃的な人なら、猛然と怒り出すし、内向的な人なら傷ついて自分の中に閉じこもるかも知れない。そして恨みに思うであろう。
 
こういう人に「あなたは立派です、周りが悪い」と言う宗教があれば彼は心ひかれて入信して行くだろう。こつこつと地道な努力をしている若者にはない心理である。

「あんなことばかりしているからあの会社は駄目なんだよ」とか「あんなことばかりしているからあの上司は駄目なんだよ」と自分では何も実現していないのに偉そうなことばかりいう人がいる。そう言う人は実は自分が自分に不満なのである。人は不満なときにそういう批判的言動をする。
 彼は苛立っている。適切な目標があって自分が楽しければそんな会社や上司のことをいちいちかまっていられない。その様に会社や上司を批判する時、自分が偉くなった気持ちになる。だからそう言う偉そうな口をきくのである。
 
彼はまともな人なら自分を考えて恥ずかしくてしょうがないようなことを得意になって言っている。しかし彼はそう批判することで心が一時安らぐ。しかし実は彼は心の底で「その会社」や「その上司」が羨ましいのである。
 
「この人、自分の事をどう考えているんだろう?」「この人、自分の事を何様と思っているのだろう」と思われる人がいる。何の実績もないうちから偉そうな口ばかり聞く人である。これが神経症的自尊心の強い人々である。
 
そして「自分の事を何様と思っているのだろう」と思われる神経症的自尊心の強い人は周囲の人とうまくいっていない。もし周囲の人とうまくいっていれば、たとえそう言う口をきいても「あいつも面白い奴だ」とか「可愛い奴だ」などと思われるのである。

こういう人々はカレン・ホルナイが言う様に本当の自信をつける機会をもてないまま年をとってしまった人達なのである。
 
農家のおじさんが改良したリンゴの種類を作って農林大臣賞をもらったとする。そして自信を持った。自信というのはその人の経験が原点になければならない。その上でリンゴの木の林の中でゴザの上に座っている。だからゴザが宝石のイスになるのである。
 
神経症的自尊心を持つ人は宝石のイスに座ることで自信を持とうとするから何時になっても自信が持てない。
 
神経症的自尊心をもとにした自己栄光化は彼にとっては心の葛藤を解決する手段なのである。毎日が居心地が悪い、だから自己栄光化によって自分の城を作りたい。居心地の良い自分の場所を作りたい。
 
普通自分の城を作ろうと思えば、土台を考える。この場合で言えば例えば心理的成長、或いは人脈等などである。自分の弱点を知り、長所を知ろうとする、それで強固な城が出来る。しかし神経症的自尊心を持つ者は毎日が不安だから、それらを見ないでとにかくお金と力等などで城を作ろうとする。
 
だから失敗が恐ろしい。「失敗したら?」と恐れるのは成功によって心の葛藤を解決しようとしているからである。「周囲の人達は、自分をこう扱うべき」と思うのは、それが心の葛藤を解決するからである。従ってこうありたいという目標ではなく、こうなければならないということになってしまう。

自分が普通の人になってしまうと心の葛藤と直面しなければならない。つまり普通の人になれば、屈辱感を味あわなければならない。それに耐えられない。
 
しかし自己を栄光化することが出来れば屈辱感を味あわなくてすむ。心に葛藤のない人、心理的に健康な人は普通の人であることに耐え難い屈辱感を味わうことはない。普通の人は神経症的自尊心の強い人とは違って心が満足しているのである。だから心の葛藤を解決するための名誉やお金や権力はいらない。心の葛藤がないのだから。
 
普通の人は楽しむためにお金を必要とする。しかし強迫的にお金を必要としない。食べて行かれればそれ以上はなければないでやって行かれる。しかし神経症的自尊心の強い人はそうはいかない。それ以上のお金が必要なのである。
 
神経症者が先ず勘違いをしているのは、普通の人は心が満足しているということである。神経症者は心に空洞があいている。この空洞を神経症者はうめなくてはならない。ところが普通の人はこの空洞がない。だから「空洞」に何かを入れる必要がない。
 
神経症者はこの空洞に名誉とかお金を入れなければ生きて行かれないのである。入らなければ、イソップ物語のキツネのように「あの葡萄は酸っぱい」と言い訳をしなければならない。
 
心理的に健康な人でお金とか名誉とかを持っている人がいる。しかしそれは空洞に入れるために獲得したものではない。していることが楽しいからしている内に結果として手には入ったものである。だから「もっと、もっと」と言う際限のない強迫的要求がない。心理的安定のために必要な権力や名誉ではない。
 
また名誉を得て、鼻持ちならない人を考えてみよう。なぜ名誉を得て、鼻持ちならなくなるのか。偉い官僚で鼻持ちならない人もいれば、普通の人もいる。大きなダイアモンドをつけて、鼻持ちならない女性もいれば、普通の女性もいる。
 
それを理解するために心の空洞を体重にならって考えてみると分かる。体重にならって心重とでも言ったらいいだろう。普通の人は心重が70キロである。しかし鼻持ちならない神経症者は空洞があるから60キロである。そして心の安定のためには心重は70キロなければならない。そこで神経症者はどうしてもあと10キロ必要なのである。
 
神経症者は名誉で10キロを得た。そこで自分は人と違って10キロ多いと思っている。そこで普通の人と同じに扱われると怒る。もともと自分の心重が普通の心理的に健康な人よりも軽いと言うことに気がついていない。

そう書いている私自身自分の心重が普通の心理的に健康な人よりも軽いと気がついたのは、かなり年をとってからである。若い頃、なんで自分は自分の人生に心から満足できないのかと疑問に思っていた。なんであの人はあんなに幸せなのかと不思議であった。
 
そして心理的に健康な人は自分よりも心重が重いのだと知ったときには驚きであった。もともと心理的に健康な人は、自分と違って心が満足しているのだと知ったときには驚きであった。

神経症的自尊心の強い学者は実際に自分が出来る研究をしようとするのではなく、皆が尊敬する大学者になろうとする。すると自分の出来る研究をしなくなる。自分の出来ることをしないで、自分の能力には高すぎることをしようとする。神経症的自尊心の強い作家は自分が書ける本を書かないで、皆が羨ましがる大作家のような本を書こうとする。
 
自分の書ける論文を書かないで人の書いた論文を批判してばかりいる大学生がいる。そして学生のうちから大学者が書くような論文を書こうとする。そういう学生は普通の学生が書ける論文すらも書けない。高すぎる目的にこだわって自分の出来ることをしない。自分の入れる大学に入らないで、何時までも有名大学に入ろうとする受験生もいる。
 
最近、日本での勉強について行けなくなったからアメリカの高校等に留学してくる高校生がいる。日本でついて行けなくなったといっても、日本で自分が期待する扱いを受けなくなったということに過ぎない。勉強そのものが理解出来なくなったというのではない。
 
彼らは自己栄光化を維持するために日本を逃げ出したのである。まさにバイパスである。そして日本の高校生をけなす。けなすのはやはり羨ましいからである。
 
そして語学の勉強で初級クラスに入った方がその人のためなのに、自分の実力を無視して上級クラスに行こうとする人もいる。神経症的自尊心の強い人は勉強の仕方も間違える。自己栄光化は神経症的自尊心で、弱さの象徴である。