神経症的競走1

今回から神経症的競走の特徴について書いてみたい。
 
日本では時々競走は子供の心を傷つけると言って競走を取り止めにする話を聞く。運動会で賞品を取り止めにするとか、試験の点を皆合格にするとか、それが暖かい人間的なこととされることがある。「競走はよくないこと」と言う主張である。
 
その時人々がイメージしている[競走]とはこれから説明する神経症的競走であろう。「競走はよくないこと」と言った時に本来の意味での競走は意識されていない。

運転免許の書き換えの時にもらった本がある。運転者の中には、前方に車がいると、わけもなく追い越そうとしたり、追い越されるととたんに速度を上げる人がいるという(註:「頭脳的安全運転」「財団法人全日本交通安全協会、54頁」)。これが神経症的競走である。そしてこれに対してこの様な運転は危険を招き、疲れるだけだと書かれている。まさに車の運転論は人生論である。
 
私はこの本を読みながらおかしくなるほど、車の運転の仕方は、人間の生き方だと思った。車で事故を起こさないような態度、考え方で生きれば、人生も間違えないと思った。私は夢中でこの本を読んでしまった。

カレン・ホルナイは神経症的競走は普通の競走と次の三つの点で違っているという。今回はその「1」を考えたい。
 
その「1」は、「神経症者は常に人と自分を対立した者と思う」である。要するに神経症的競走をする人はいつも人と張り合っている。

現実に利害が対立しているわけでもないのに、神経症者は物凄い対抗意識を持つ。何ら現実に対抗しているのではないのに、強い対抗意識を持つ。
 
現実に利害が対立した時には心理的に健康な人もあらそう。しかし神経症的競走は現実の利害対立なしに競走することである。学者でも自分と利害が対立していない文化人の悪口をしきりに言う人が入る。

では何でそんなに人と張り合うか。心理的に健康な人には張り合う理由がわからないほど張り合う。それは神経症者が自分の目的が分かっていないからである。それは人と心が触れ合っていないから自分の価値を感じられないからである。
 
「なぜ、そんなに他人のことが気になるのか。その理由の一つは、要するに自分に自信がなく、視野が狭いのである。自分の人生、自分の生活に、それ自体としての価値が見いだせずに、身近な他人との比較においてのみ考えようとするからである。」(註:詫摩武俊、嫉妬の心理学、光文社、70頁。)
 
そして神経症者は目の前のもので張り合っている。それが視野の狭さである。カメがウサギを意識したらカメはウサギと競走しないだろう。山登りの競走でウサギに勝ったカメはウサギではなく、山の頂上を見ていたのである。
 
神経症者は、いつも誰が「より」知的であるか、誰が「より」魅力的であるか、誰が「より」人気があるか、等を気にしていると言う。

私は神経症者が最初に張り合うのが身近な人であるという気がする。自分が苦労して何事も達成されないと身近な人にけちをつける。身近な人に文句をいって気を晴らしている。

とにかく神経症的競走をしている人は他人の成功、失敗が気になる。他人の結婚、離婚が気になる。他人の成功が面白くない。自分の価値を下げると感じるからである。自分と他人を対立して考えるからである。人が何処に旅行に行ったかが気になる、隣の芝生が気になる、隣の家の二階が気になる。
 
約三十年前初めてアメリカ大陸を車で東から西へ横断した時である。アメリカのプールで下手な水泳をしている年寄りを見て感心した。同じプールで若者がかっこうよく泳いでいるが、年寄りは自分の下手な泳ぎ方を気にしない。自分を知って神経症的競走をしていない人々である。

この神経症的競走は競馬の騎手みたいなもの、この態度は物事への真の興味をなくすとカレン・ホルナイは言う。しかし私は競馬の騎手はまだいいと思っている。なぜなら騎手は目的がわかっているからである。
 
競馬の騎手で馬が何かにぶつかるまで走るのが神経症的競走だと私は思っている。神経症的競走をして社会的に挫折した人は、とにかく走って馬から落ちた騎手である。しかも「何で落ちたか」分からない。そして自分が落ちたことを馬のせいにする様な騎手が神経症的競走をしている人である。
 
夢中で走った馬もエネルギーを無駄に使い、落馬した騎手も怪我をした。こんな愚かなことをしているのが神経症的競走をしている人々である。
 
人生で大事なことは、自分は今何をしているのかを考えて行動することである。今、行動していることが、自分の目的につながるようにするのが賢い生き方であろう。

神経症的競走をする人は音楽会に行っても音楽を聴くことよりもどのような席で聴くかの方が重要になる。結婚式では新郎新婦をお祝いすることよりも、席順が重要になる。それが神経症的競走は人々に物事に真の興味を失わせるということである。

神経症者は周囲に優位するばかりでなくその優位を相手にも認めさせようとするから余計いがみ合いが激しくなる。なぜ優位にたちたいかというと、今まで力で人を抑えているからである。
 
心のふれあいのない子供が砂場に遊びに来る。するとその子は徹底的に威張る。仲間にシャベルをかさない。ただ自分に迎合する子にはシャベルをかす。
 
そうした子が仲間を作ることがある。その子は自分は仲間と思うが、相手はシャベルを貸してもらうために我慢をしている。だから、その子を仲間とは思っていない。
 
その子が棒切れがなくて、仲間と思っている子供に「貸して、、」と言うと、今度は相手の子供は「貸してあげない」という。その威張っていた子は「貸さない」と言われたことがショックである。いじめられたと思う。
 
その子は自分は他にたくさん持っているのに、例えばシャベルを持っていないことがものすごく気になる。そうした子供は自分がすべてを持っていないと不安になる。人は貸してくれないことを知っているからである。そして何よりも人の持っている者が気になる。その仲間に、「あの子、どんな子?」と聞いても、仲間の子は「知らなーい」「わからなーい」と言う。
 
その親分の子に「今なにしていたの?」と聴くと、「苛められた」と答えることがある。その他のおおぜいの子に「何をしていたの?」と聴くと、「いじめられた」と答える。
 
つまりみんな遊んでいなかったのである。心のふれあいのない関係はお互いが必要なことがなくなった時に、すごく残酷な形で終わりになる。神経症的競走はこんな関係なのである。

相手も優位しようとしている。その相手にこちらの優位を認めさせようとしているのであるから、こちらの優位を認めるはずがない。お互いに相手の優位を認めるはずがないのにその優位を認めさせようと激しくいがみ合う。
 
そうなると自分の関心が相手に縛られてしまう。相手に少しでも勝つか負けるか、相手がこちらを少しでも軽く見るかどうかというような些細なことが物凄い重要な事になってしまう。そうなると自己実現などというようなことはどこかへ行ってしまい、ただ相手との関係だけが全てになってくる。

今の時代、競走の目的が違ってきた。昔、子供が最初に走っていた時を考える。夢中になって走って、「俺一番!」と言った子供が居る。
 
「自分が走るのは遅い」と子供は納得している。「でも算数では負けない」と子供は思っている。「あの子を算数で認めたけど、俺は走るのが早い」と別の子は思っている。
 
不満な子が競走で勝とうとする、それが神経症的競走である。子供の心を傷つけると言って競走を取り止めにするのは、神経症的大人の発想である。
 
大人がきれいごとをいって子供の心を抑えつけていることである。子供は何番といったほうがいい、納得していれば子供は順位を認める。自分も相手も納得して競走してランクがないのは参加した子供にも空しい。