成熟格差社会の中で求める自己の存在証明

情報化社会、ネット社会、消費社会等様々な呼ばれ方をする社会の中で人々は生活の意味内実を失い、他者への共感も失う傾向にあり、今まで当たり前なこととして行われてきたことが当たり前でなくなりだした。
 中には、自然な経験を構成する自明性からの離脱が行われ、人間としての自然な感情を失う傾向にある人たちも多くいる。

 2000年5月に17歳の少年がある主婦を殺害し「殺人は、僕にとって、どうしても体験しなければならないことだった」と述べているという。また新潟県の会社員宅で71才の女性が撲殺された。その犯人の少年は「殺すのは誰でも良かった」と言って世間を驚かした。それ以後もこの6月の秋葉原殺傷事件まで、それに類する動機不可解な犯罪の増加は続いている。
 これらは殺すことでしか自己の存在証明を得られない人々である。今想像を絶したほど恐ろしい深刻な事態に日本は直面している。

 2000年に首都圏でネコが耳を切り取られたり、アシをナイフで切り落とされた事件があった。その少年はテレビゲームとナイフ集めにしか関心を示さなかったという。捕まると「切れ味を試したかっただけなのに」と言ったという。
 これらのことは死を愛する傾向であるネクロフィラスな傾向と説明をしても良いが、これらの少年達には正反対のバイオフィラスな傾向との葛藤がない。そう言う点ではやはり動機不可解と言うべきだろう。
 動機不可解と言うことは、その人達の人間存在の全面的変化をもたらす何かが社会の中で起きているとも考えられる。
 「殺すのは誰でも良かった」と言うことは、犯人は殺すことで自己の存在証明を得ようとしていると言うことである。彼らにとって生きることがこの上なく不確かなのである。
 殺すことで自分が生きていることを確かめたかったと言うことであろう。
 例えば秋葉原無差別殺傷事件の容疑者は「できるだけ多く殺したかった」と供述していると言う(註;朝日新聞朝刊、2008/6/20)。この供述はこの無差別殺傷事件が「自分が生きていることを確かめたかった」と言う動機であることを表している。
 動機不可解という時の動機は自己の存在証明を得ようとしたということである。

 治安の維持にしても、今までの治安対策だけでは十分に治安を維持できないと考えられなくもない。
 秋葉原殺傷事件の容疑者や今年3月の茨城県土浦市で起きた複数の人の殺傷事件の容疑者、また同じ3月JR岡山駅内で男性を線路に突き落とし死亡させた少年等がテロリストにリクルートされていたら、事件はもっと深刻になっていたに違いない。
 彼らは「殺すのは誰でもよかった。複数の人を殺せば死刑になると思った」あるいは「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」と言ったと伝えられる。簡単に自爆テロの要員になる。
 対象無差別の殺傷事件からネット心中に至るまで、今、動機不可解な事件が相次ぐ。

 オニギリは母親が作らなくてもコンビニで買える。家に居間がなくても渋谷が居間になる。
 家族の中の情緒的絆は崩壊しても、生きていけるシステムが社会の中にある。
 そのシステムが社会の中に張り巡らされることで、いよいよ成熟格差社会は深刻になる。
 秋葉原無差別殺傷事件の容疑者は二十歳を過ぎても少年時代からの人格の再構成が出来ていない。しかしそのままでも生きていけるシステムが社会の中に出来上がっている。少年期の価値観から視野が広がらないで社会的には青年になる。
 しかし心理的には人はそれぞれの人生の成熟段階でそれぞれ解決すべき課題をもつ。
 秋の服で居れば冬になれば寒い。もし服が見えなければどうなるか。服は心である。
 もし服装が見えなければ、春夏秋冬の季節の移り変わりと言う外側の変化に対応できない人が出てきても、外からは分からない。

 日本はどの資料を見ても家族の情緒的崩壊は世界一である。
 秋葉原無差別殺傷事件の容疑者が両親について「あんなのは他人だ」(註;朝日新聞朝刊、2008年6月18日)」と言ったというが、この気持ちそのものは表面的に感じられるほど若者の中では特別なことではない。

 情緒的な意味で生活空間の崩壊が世界一と言うことは、世界で最も深刻な成熟格差社会ということである。