ネットの書き込みから見える容疑者の心理

容疑者がネットに書き込んだ文章を分析してみる。ネットに書き込んだ文章を分析する事で彼の人柄が見えてくる。

5月20日
「二交代の工場勤務が底辺の仕事とは思えないけど」と言う書き込みに対して容疑者は次の様に書いている。
「人生に楽しいことなんて一つもありませんよ。」と書く。素直に書けば最後の「よ」は書かない。「人生に楽しいことなんて一つもありません。」である。
そしてさらに「どうせネットですし、はっきり書けばいいじゃないですか」となる。最後の「いいじゃないですか」が気の弱さを跳ね返そうとする高圧的な態度を表現する文章である。
犯罪意識がない。

5月29日
「彼女がいれば、何事にも耐え忍び死ぬ気で頑張りますよ。」。これも最後の「よ」である。
普通に書けば「彼女がいれば、何事にも耐え忍び死ぬ気で頑張ります。」である。彼は自分が頑張らないことを人のせいにしている。自分が悪くなったのは「この」ためと言ういい方である。責任転嫁。

彼の書き込みを読んでいると彼には自分がないことがよく分かる。
自分が頑張らないことの原因を「彼女が居ない」と言うことに持って行っている。つまり私が頑張らないのは、私の責任ではないと言うことである。
オーストリアの精神科医ベラン・ウルフが神経症者は、身代わりを求めるという。まさに自分が努力しないことの身代わりが「彼女が居ないこと」である。

5月30日
容疑者以外の人から「不細工でも苛々するんだな。「素晴らしい」って言葉を使えるんだ。」と言う書き込みがある。
それに対して「何か壊れました。私を殺したのはあなたです」と容疑者は書いている。 そして翌日の5月31日に「みんな死んでしまえ」と書いている。
これは先に書き込んだ人に対する甘えである。とにかく容疑者は甘えている。
小さな子どもが「みんな死んじゃえ、死んじゃえ」と言うのと同じである。
ところがこの様に書いているともう反応がなくなる。甘えたら人がいなくなった。
この人はネットの上でも甘えられない。
この人がかかわったら大変なことになる。逆にこの人に拘わられたら大変なことになる。
そして「お前ら」と言う割には言葉が弱い。
「お前ら」と言いつつ「みんな死ねばいいのに」と言っている。
「お前ら」と書くなら「みんな死ね!」でよい。さらに彼の文章には感嘆詞がない。

6月4日
「一人で寝る寂しさはお前らには分からないだろうな。」と友達に訴えている。
心理的に自立しているなら「一人で寝る寂しさは誰にも分からないだろう。」である。最後の「な」はない。
「彼女いる奴もにも彼女いない時期があったはずなのに、みんな忘れちゃっている。」と書いている。
「ちゃっている。」と言う様な会話の表現。彼にとっては携帯がお友達だったのだろう。

「スポーツカーに女乗せている奴が居た。事故ればいいのに。汚いものを見入るような目で見るな。」。
相手は汚いものを見るようには見えていないかもしれない。自分と関係のないことでも自分と関係があると思ってしまう彼は自己関連妄想と呼べる。
スポーツカーに女を乗せたいと言う願望を持っているのは彼である。普通はうらやましい。
しかし彼は「うらやましいな」ではない。「こうして俺をばかにしている」になる。
福井にナイフを買いに行くときも東海道新幹線で長良川を越えるときに「堤防でいちゃついているカップル、流されて死ねばいいのに」と言う。(註;朝日新聞朝刊、2008/6/10)
ねたましい人を見ると「死ねばいいのに」と願う。それが「殺してやる」になっていった。

6月5日
「犯罪予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」と書いている。
自分と同じ人が「日本にはたくさん居る気がする」のである。殺すのは怖い。最初は怯えていた。凄いことをすると思っていた。
でも自分だけではない。そういって安心しようとする。犯罪は自分だけではないと思いたいのである。
彼は自分が犯罪予備軍と知っている。そしていつも「こうしたことをするのは自分一人ではない」と言いたい。
おれだけではないんだよ。不安がありながら、こう言って安心したい。
そして自分が今から代表して犯罪をする。まさにエリートの感覚である。

「キャンプ、釣り、狩猟、ダイビング。これらの目的の時のナイフを携帯していてもしょばつされないんだってさ」
この最後の「だってさ」が犯罪予備軍のなかで自分はエリートであると言う意識である。
知ったかぶりをして書いている。上から指導している。上から見ている。
スポーツカーに対しては憎しみ。自分は犯罪予備軍を代表して殺す。

6月5日
「日に日に人が減っている。大幅なリストラだし、当たり前か」と書いている。
彼はリストラされる事を恐れる。まわりから責められている気がしている。攻撃性が自分に向けられている。

つづく6月6日には「一花くらい咲かせたいものだね」と書く。またしても「ね」である。強い意志があれば「一花咲かせてみせます」である。せめて「一花くらい咲かせたいものだ」であろう。
犯罪をして花を咲かせたいのである。

彼はすねた女の感覚で書いている。
「自分は不細工だ」と言うのは拗ねている時の表現である。甘えを拗ねるという形でしか表現できない。「どうせ俺はデブさ」と拗ねているのと同じである。
だからなんかうまくいかない。
彼は自分の位置が分かって居ない。

「有り難う御座います。」とか「と自分は思った」と書けば違った人が来たかもしれない。 
「だけど自分は頑張った」と書いたら違った人から手紙が来る。自分の意志で書いているから。

彼のような書き方をするから周りには同じ様な人が集まる。
彼の文章を分析してみると彼は怒りの表現と悲しさの訴えを同時にしている。
彼は「お前らには、俺の寂しさを、誰も分かってくれない」と書きたいのだろう。