安倍元首相の時と、今回の岸田首相の襲撃事件の決定的な違い
〜社会の内側と外側〜
(2023年5月12日)

安倍元首相の時と、今回の襲撃事件では、動機や感情がまったく違う 。
安倍元首相の時の容疑者は社会の内側の人であり、今回の容疑者は社会の外側の人である。

安倍元首相の時には、なぜ安倍元首相を襲ったかということが、一般の人に分かるような動機と感情だった。 自分の家庭を崩壊させたのは旧統一教会で、旧統一教会に安倍元首相が関与している、だから安倍元首相を襲撃するのだ、と。

しかし、
今回のケースは、容疑者の言う動機は参議院に立候補できなかったことだと言う。
同じ大人でなぜ自分は立候補できないのか、「おかしい」と言う。

一般の人は、そもそも公職選挙法が定める被選挙権の年齢に達していないのに、立候補しようとすること自体がおかしい、と思う。
それは、暗黙の了解に対する違反である。
また、国を訴えるほど傷つけられた感情を理解できない。

普通の人からすると、具体的に何が国を訴えるほど、損害をこうむっているのかよく分からないし、それどころか、それがどうして精神的にそれほど被害を受けることにつながるのかも、よく理解できない。

一般の人は、“社会の中”での解釈と感情だからである。
「社会の中」の人に発生する感情が、彼には発生しないからである。
逆に「社会の外にいる人」に発生する感情は、「社会の内にいる人」に発生しない。
感情が発生するコンテクストが両者では違う。

立候補できなかった、と言う事実がどの様な感情を発生させるかは、当然のことながら、その事実のコンテクストによって違う。

これまでも、弁護士が、弁護人の動機を理解できないというケースはあった。
おそらく、今回も弁護士は、弁護しようがないと思ったかもしれない。
弁護士が、依頼者を守ろうとする時は、自分の論理と感情で考えざるを得ないから、今回のケースも、なぜ黙秘しているのか、理解できないかもしれない。なぜそれほど被害を被っているのか、被害を被っている感情を理解できないかもしれない。

通常、社会の中にいる人の行動を、社会の中にいる人が理解し、弁護するのが、裁判である。
だから、“社会の外”にいる人の行動や感情というのは、社会の中にいる人が、その社会の中の考え方や感情で理解しようとしても、理解出来ない。
裁判員制度では、社会の中のコモンセンスをもった人が多くいるため、そこへ訴える弁護というのは、今回の容疑者には極めて難しいだろう。

今回の容疑者が理解できるのは、明示の違反であり、暗黙の了解に対する違反ではない。

容疑者からすると、「誰も理解してくれない」と思うから黙秘するし、
実際本人以外には、理解できない動機の意味や感情があるのだろう。

社会の中の考え方からすると、いきなり岸田首相を襲撃することにつながるのは、理解できないが、
容疑者本人は、本当に精神的打撃を受けたと感じているのだろうし、その精神的被害を賠償するために、事件を起こして当然と思っているのだろう。

今回の容疑者は、社会の外にいるから「社会の暗黙の了解」を理解できていない。
彼が理解できるのは、「社会の明示の違反」だろう。
この種の犯罪は今後増えてくるだろう。社会が社会として成立する土台が崩れてきているからである。

この種の犯罪とは、容疑者が社会の「暗黙の了解」を理解できないことである。
また両者で発生する感情のコンテクストの違いを理解できないことである。お互いに感情の動きが理解できない。

「社会の中にいる人」からすれば、彼らの疑問は説明不要のことであり、説明不能のことである。

 簡単に説明すれば、
心理的に社会と関わっている人と、社会と関わっていない人の行動の意味と感情の違いである。
今までは無人島にいる人の感情や行動の意味を理解する必要性はなかった。
無人島にいる人と言う言い方が極端すぎると言うなら、
「社会の外にいる人」とは、長いこと人との言語的コミュニケーションも非言語的コミュニケーションもなかった人である。

<関連映像> 2008年1月19日 加藤諦三 早稲田大学最終講義
第1章
第2章
第3章
第4章(最終)